言葉での理解ではない、ある種の雰囲気を生活の中に送り込むための読書

小説を読んでその世界観に感化されて、自分の生活に変化が起こることがある。オレは、吉田篤弘さんの本が好きでなかでも、「つむじ風食堂の夜」がハンパなく好きだ。

話の筋がどうのこうの、というより。作品全体がまとっている、余白、というか、ゆとり、というかそういった雰囲気が読んでいて心地よい。シーンの説明が少ないし、登場人物の会話のやりとりも、なんだか中身がギッシリつまってない。もちろんいい意味で。

舞台は月舟町という、小さな町。浮かんでくるイメージとしては、住宅街にちょっとした商店街がたり、そこを通ると顔なじみの知り合いに会って、「こんにちわ」くらいの挨拶を交わす。そんな、ガッツリでもなく、かと言って、疎遠とも言えないいい距離感で人々が暮らしている。そんなイメージ。

夜遅い時間までやっている果物屋が登場するする。そこの主人とのやりとりも、物語の中の場面に何度か。何度も読むうちに、自分の住んでいる町に月舟町の面影を重ねている自分がいることに気がつく。

夕刻、オレの帰り道の通り沿いに花屋がある。昔ながらの商店といったたたずまいで、中をチラッと覗くと果物も取り扱っている。小説の中の情景を思い浮かべ、まるで自分が物語の登場人物になったかのような感覚にひたる。

小説の人物たちのように、店主と会話をすることはおろか、別に買い物するものも無いので今のところ入らずじまいの花屋ではある。しかし、小説を読まなければその花屋のことを、意識することも無かったかのように思うと、影響されている自分に気がつく。

物語の世界を生きているような心地で、生活を送ることはただのナルシシズムなのかもしれない。けど、それで自分が心地よく生活できるのであれば、本から受けた影響としては自分にプラスに働く。物語の登場人物になった気分で夕刻の路地を歩けば、いつもと違う町角の風景に目を止めることもある。その体験は自分の感性を錆び付かせないためにも、役立つことかもしれない。

くりかえしだが、そんなことはただのナルシシズムである。でもそれでいい。物語の世界を生きるような心地に浸る瞬間があったっていいじゃ無いか。日々は地味で冴えないのだ。それを、刹那的であれ美しいものに変えてくれるような、物語に触れることが、ただ心地よいのだ。

言葉で論理的になにかを理解することだけが読者では無い。言語化不能な、ある種の雰囲気、ムードを自分の生活の中に送り込むための読書。それもまたいいよな。別に意味なんかなくていい。心地いいと感じるその瞬間に立ち会えることで、十分なのだ。

あ〜、金麦飲みてぇなぁ