「勝てば選手のおかげ、負ければ監督の責任」「名選手、名監督にあらず」ー「支援者」としての考察

 いきなり何だろうと訝しげに思った方もいるかもしれませんが、以下で評細かつ具体的に説明していきたいと思います。
 「つぶやき」で書きましたが、去る3月23日(土)に「保育士証」が郵送されました。これでとりあえず「保育士」としての仕事の道が開かれたことになります。もちろん、気持ち的には嬉しいです。ただ反面、気が引き締まります。私は現在、就労継続支援A型の「利用者」であり、「保育士」であるということは「支援者」サイドに回ることを意味するからです。今回はその「利用者」と「支援者」の立場の違いについて考察してみたいと思います。
 というわけで、今回のタイトルを今一度振り返ってみましょう。「勝てば選手のおかげ、負ければ監督の責任」ーこれはプロ野球で昔から言われている言葉です。今年は3月29日(金)からプロ野球が開幕します。プロ野球の世界では選手と監督というのは対等な関係ではありません。監督が上の立場であり、選手は下の立場です。なので、監督は選手を自身の戦術で動かす権限があります。ただ、そこにはそれに相応しい責任や覚悟が伴います。だから「負ければ監督の責任」になるのです。このような監督の在り方によって初めて、選手と監督は対等な関係を築けるのです。
 何が言いたいのかというと、以上の事柄は「利用者」と「支援者」の関係にも応用可能ということです。要するに、「上手くいけば利用者のおかげ、そうでなければ支援者の責任」ということです。過激な表現かもしれませんが、上手くいかない時に利用者の責任にしてしまう支援者の現実を見ているからこそ、このように考えています。力関係を考慮すると、「支援者」は力ある立場であり、「利用者」は力ない立場です。したがって、対等な関係ではないのです。その関係性を対等にする責任を負うのは支援者側です。ということは、そうするに相応しい責任と覚悟が問われます。支援者側がそういう在り方をすることで初めて、「利用者」と「支援者」は対等な関係になるのです。
 以上のことから、選手/「利用者」ー監督/「支援者」は「違う人間」であると捉えていく必要性があります。要するに、選手/「利用者」は「人権と権利」、監督/「支援者」は「責任と覚悟」という違いがあるということです。「名選手、名監督にあらず」とプロ野球ではよく言われます。スター選手だった人が監督もできるとは限らないということです(因みに個人的には、両方とも超一流と言えるのは唯一、現プロ野球解説者の落合博満さんだけと考えています)。それと同様、私も「利用者」としては上手く適応できても、「支援者」として同様にできると見立てたら墓穴を葬ると考えています。要するに、自分が「保育士」として仕事をしたければ、「名利用者、名支援者にあらず」という前提で取り組む必要があるということです。「気が引き締まります」と前述したのはそういう理由もあります。
 今回はプロ野球開幕の時期に原稿を書いたためか、プロ野球と支援の世界を結びつけてみました。多少論理的に跳躍しているかもしれませんが、少しでも何かが伝われば幸いです。私もTwitterやnoteでは「支援者」を批判するような文章を書いていますが、それは「支援者」として私自身はこうする、こうしようという「責任と覚悟」表明です。だから、書くことで「支援者」としての自分に言動一致を要求しているとも言えます。もちろん、職場での支援者間の力関係がありますから一筋縄ではいきませんが、自分がこれまで書いたことに誠実でありたいと考えています。
 ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。

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