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早稲田の古文 夏期集中講座 第20回 『無名草子』

『無名草子』は藤原卿女と呼ばれた人によって成立したとされている。本当は孫なのですが、祖父母の俊成夫妻に溺愛されていたので、生前から、俊成卿女と呼ばれていました。

なお、父方の系統の子孫に『とはずがたり』の作者の後深草院二条がいます。定家は9歳、年上であったが親しかったそうです。

1201年の歌会で好成績を収めたことで後鳥羽院に注目され、歌芸をもって院につかえることになりました。この頃に『無名草子』は成立したようです。

藤原俊成の選んだ『千載集』についてコメントしたところがあります。

「『千載集』こそは、その人にのしわざなれば、いと心にくく侍るを、余りに人に所を置かるにや、さしもおぼえぬ歌どもあまた入りて侍めれ。」

と言います。あまりに歌人たちに遠慮なさったのか、さほどよいとも思えない歌がたくさん入っている、というのでしょう。

『千載集』といえば鴨長明がはじめて一首入選したので大喜びしたというエピソードがあります。(『無名抄』参照)西行は、自身の秋の夕暮れの歌が採用されなかったので都に帰らず、修行先の陸奥の国に帰ってしまった、といいます。(『今物語』参照)

そして、

「いでや、いみじけれども、女ばかり口惜しきものなし。」

と言う、女性論は『無名草子』によく出るコメントで「女のいまだ集など撰ぶことなきこそ、いと口惜しけれ。」と言うのでしょう。

和歌の世界では、女性の地位の低さ、選者となることはおろか、入選者になることすら難しいと嘆いているのです。(『無名草子』新潮日本古典集成 桑原博史 校注)

新古今和歌集を見てみましょう。角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックス(小林大輔編)では次の一首が取り上げられています。

 露払ふ 寝覚めは秋の 昔にて 見果てぬ夢に 残る面影(1326)

訳注では以下の通りとなります。

「秋の夜にふと目が覚める。すると、枕に流した涙の露を払い落す自分がいた。それは、あの人に捨てられた昔の自分である。でも今しがた途切れた夢の中では、私はあの人と幸せに逢っていた。目が覚めても、愛しいあの人の面影が残っている。ぼんやりとした意識の中で、私は今、恋の喜びと悲しみを、同時に味わっている。」

としています。(同書P162)「いかにも俊成卿女らい、デリケートな恋の歌である。」としていますが、それだけで終わってよいものでしょうか。和歌に限らず、クリエイターというものは常に人知れず苦悩をかかえています。作品はあくまで架空のもので虚構であるから現実の作者と結びつける必要はありません。作品は作者の事情をはなれて一人歩きする性質のものだからです。

しかし、現実の作者の苦悩を知れば作品理解に深みが出ます。心の深さというものをあらわす歌体が有心体とよばれる定家の理論だからです。そこに鑑賞の極意があると思われます。


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