見出し画像

福翁自伝を読む④ 「原書と漢文」【慶應義塾中等部対策】

福澤は当初、原書というものを知りませんでした。

ころは安政元年二月、すなわち、私の年二十一歳のときである。
その時分には、中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字も見たものもなかった。都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。ところが、そのころはちょうどペルリの来たときで、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でも皆知って、同時に砲術ということがたいへんやかましくなってきて、ソコデ砲術を学ぶものは皆オランダ流について学ぶので、そのとき私の兄が申すに、「オランダの砲術を取り調べるにはどうしても原書を読まなければならぬ」と言うから、私にはわからぬ。
「原書とはなんのことです」と兄に質問すると、兄の答えに、「原書というは、オランダ出版の横文字の書だ。いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本おおもと蘭文らんぶんの書を読まなければならぬ。それについては、貴様はその原書を読む気はないか」と言う。

福澤諭吉著「新訂 福翁自伝」岩波文庫P.27

この一節から、福澤が二十歳になるころまで、アルファベットすら見たことがなかったことがわかります。
しかし、福澤は、漢文が得意でした。

私はと漢書を学んでいるとき、同年輩の中で何時いつも出来がくて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然たのみにする気があったと思われる。
「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」と、・・・(後略)

福澤諭吉著「新訂 福翁自伝」岩波文庫P.27

ここで注目すべきは、明治の教養人は、「和漢洋」全てに秀でていたということです。
英語だけ能力が高くて、漢文や古文が出来ないと言うことは無かったのです。
当時のベストセラー「学問のすゝめ」を書いた福澤諭吉。
英文で「武士道」を書いた新渡戸稲造。
英文で「茶の本」を書いた岡倉天心。
英文で「代表的日本人」を書いた内村鑑三。
英語を自由に操って、日本の文化や深い精神性について記した著作を出している彼らは、英語以上に漢文の素養もありました。
ケネディ大統領が「代表的日本人」を読んでいたという話は有名です。
あのケネディをして「上杉鷹山は我が師である」と言わしめるほど、その本は、彼に強く影響を与えたようです。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という上杉鷹山の決断と実行力が、異国の大統領の魂を揺さぶっているという事実に驚く人は多いでしょう。
上杉鷹山は江戸時代の人ですから、当然、四書五経などの漢文も学んでいたことは間違いありません。
上杉鷹山の決断と実行力を作り、人間性と精神性を築く礎となったのは、英語ではなく、古文や漢文を中心とした古典であったことを忘れてはいけないのです。

今の日本人に、福澤諭吉や岡倉天心、新渡戸稲造や内村鑑三のように、世界の人の魂を揺さぶるような英文の本が書けるでしょうか。
残念ながら、現状を見ている限り、それは不可能だと感じています。
日本人の魂ともいえる「古文」や「漢文」をないがしろにして、安直に英語に走っているようにしか見えないからです。
それでは、魂の抜けた本しか書くことが出来ないでしょう。

小学生の頃から、「福翁自伝」のような本を読み、真に教養のある明治人の精神性を魂の栄養として吸収しない限り、本当に世界に通用する国際人になることはできません。
国際社会の中で繰り広げられている激しい競争は、魂と魂のぶつかり合いです。本当の意味で、外国人に勝てる「大和魂」というものがない限り、どこの国に行っても、負け犬として帰ってくることになるでしょう。
漢文には千年以上の伝統があります。古文も同様です。
このような千年の伝統を無視していては、真に教養のある日本人になることはできないでしょう。
英語は、単に自分の考えを伝える一つの手段(言語)に過ぎません。
流暢に英語を話すことが出来たとしても、そこに耳を傾けるべき中身が無ければ、誰も相手にしてくれません。
国際社会となった現代こそ、小学生のうちから、古文や漢文を積極的に学び、日本人として「確固たる精神」を養うことが重要なのです。


この記事が参加している募集

#わたしの本棚

17,602件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?