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早稲田の古文 夏期集中講座 第35回 『増鏡』の女性達④ 京極院佶子(きっし)

早稲田法学部2021年に出題されたのは亀山院妃・佶子(きっし)に関するものでした。『増鏡』によると佶子が入内したのは、亀山天皇十二歳、佶子十六歳の時でした。父は名門西園寺家の実雄(さねを)という人で、のちに太政大臣になった人です。

西園寺家は兄の実氏(さねうじ)の系統が繁栄していました。実氏の娘は、大宮院が後深草天皇・亀山天皇の母であり、東二条院が後深草天皇の正妃となっています。弟の実雄も九人の子供がいたため、娘の佶子だけでなく慞子(いんし)は後深草院妃となり、伏見天皇を生み、玄輝門院と呼ばれ、季子(きし)は伏見院妃となり、花園天皇を生んで顕親門院と呼ばれています。

出題されたものは「公宗(きんむね)の思い」という所です。以下の文で始まっています。

「この入道殿の御弟に、そのころ右大臣実雄(さねを)と聞ゆる、姫君あまた待ち給へる中に、すぐれたるをらうたきものに思しかしづく。今上の女御代(にょごだい)に出て給ふべきを、やがてそのついで、文応元年入内(じゅだい)あるべく思しおきてたり。院にも御気色(みけしき)たまはり給ふ。入道殿の御孫(むぎ)の姫君も参り給ふべき聞こえはあれど、さしもやはとおしたち給ふ。いとたけき御心なるべし。」(『増鏡』(中)全訳注 井上宗雄 講談社学術文庫)

入道殿とは兄の実氏のことで、西園寺実氏の栄華は当然の前提として描かれています。弟の姫君が文応元年に入内するというのは亀山天皇に入内する佶子の事ですが当然、名前は隠されており、姫君とだけ記されています。実氏の孫の嬉子(きし)も亀山天皇入内のうわさがあったことを示しています。この時代の院とは後嵯峨院の事で、後深草院・亀山院の父で、この時代の絶対的な権威をもっており、許可があったので佶子の入内を決行したという事です。更に続くのが以下の文です。

「この姫君の御兄(せうと)あまたものし給ふ中のこのかみにて、中納言公宗(きんむね)と聞ゆる、いかなる御心かありけん、下(した)たくけぶりにくゆるわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじきことと思ひはなつにしても、したがはぬ心の苦しさ、おきふし、葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我かの気色にてのみほれ過ぐし給ふを、大臣(おとど)又いかさまにかと苦しう思す。」

ここで兄の公宗は、亀山天皇のもとに入内する妹(この時十六歳)に恋したうという、あるまじきことがおこってしまい、ねてもさめても泣き暮らしている姿を父の実雄公はどうしたものかと心配しているという様が書かれています。兄と妹が深い関係になるというのはこの時代に珍しいことではありません。後深草院と前斎宮の例もある位です。

しかし『増鏡』の作者はこのような事態を決して容認していません。後深草院に対しても、「けしからぬ」性格だと非難しており、この公宗についても「あるまじきこと」(あってはならぬこと)としています。倫理的にきびしい態度を貫いています。それさえわかれば解答は容易だったでしょう。(終)

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