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学校という社会に馴染めないのはある意味必然かもしれない

学校というのはある種の社会だ。
人が集まるから社会が構成される。
だからこそうまくいかないことがあっても当然なのだけど、でも少なくとも公立の小中学校は少しうまくいかない意味合いが違うように思う。
公立の小中学校はある意味でコミュニティであって、完全なアソシエーションでないことを意識するかしないかで学校というものの見え方が変わってくるのではないだろうか。

アソシエーションとは、マッキーヴァーが提唱した概念で、「ある共同の関心(利害)または書関心を追求するための組織」であり、例として、家族・国家・企業のほか、学校や NPO など様々な機能的組織が挙げられます。
一方で、共通の目的はないが、同じ場所や地域に住んだり「共通の風俗などでつながり合ったりする共同体」がコミュニティということになります。

福祉イノベーション大学HPより

学校は本来ならば、学びのために集まるアソシエーション型の集団ということになる。
しかし、公立の小中学校に通う子どもたちは、基本的に居住地によって就学先が決められており、同じ地域に住んでいる同年齢という共通項で集められる。
だからこの集団はコミュニティ型の集団とも言えなくもない。

公立の小中学校がコミュニティ型の集団ということであれば、学校に馴染みにくい、友だちができにくいという子がいても不思議ではない。
コミュニティ型の付き合い型を知らないのだからそれは仕方のないことなのかもしれない。
アソシエーション型の集団というのは分かりやすい。
同じ目的を持って、それに向かって進んでいくのだから分かりやすい。
それに合わなくなったら抜け出すこともできる。
しかし、コミュニティというのは自分の意思のみで抜け出すことは難しいし、正論や理屈では物事が動かないことも多い。
不可解なルールも生まれやすい。
分かりやすい例を挙げれば、自治会やご近所付き合いだ。
もちろん、うまく機能していれば日々の暮らしにおいて心強いことこの上ない。
しかし、馴染めないでいるとずっと不安定な気持ちになるものだ。
大人はある程度割り切った付き合いもするだろうけど、少々の理不尽にも目をつぶって過ごすこともあるだろうけれど、子どもにそれを求めるのは少々酷ではないだろうか。

学校は勉強をしたり、集団での生活を学ぶところだ。
そして主権者教育の場でもある。
ちなみに、主権者教育について文部科学省ではこんな力を育成することとしている。

主権者として必要な資質・能力の具体的な内容として,国家・社会の基本原理となる法やき まりについての理解や,政治,経済等に関する知識を習得させるのみならず,事実を基に多面的・多角的に考察し, 公正に判断する力や,課題の解決に向けて,協働的に追究し根拠をもって主張するなどして合意形成する力,より よい社会の実現を視野に国家・社会の形成に主体的に参画しようとする力

小・中学校向け主権者教育指導資料「主権者として求められる力」を子供たちに育むために

要するに、社会の課題を自分事として捉え、その解決、協働に向けて主体的に参画することが求められていて、学校ではそういう力も育成することになっている。
これは、コミュニティ型とアソシエーション型と両方の社会で生きていく力を兼ね備えている必要があるということだ。
だから、今の学校のあり方としては理にかなっているところもあるのかもしれない。
しかし、学校は何かを学ぶところ、として期待して入学した小学生にとっては、学校とはアソシエーション型のイメージがあるのではないだろうか。
そこで、この主権者教育の意味がある。

英語の表現で「他人の靴を履く」というものがある。
これは他人の立場に立ってみるという意味であり、自分ではない他人がどう考えるのだろうと想像することだ。
これは「エンパシー」である。
似た言葉で「シンパシー」という言葉があるけれど、この2つの言葉は絶対的な意味で違う。
「シンパシー」は同情とか共感の感情であり、「エンパシー」は自分とは違う立場の人に対して、例えそれが共感できないものだとしても何を考えているのだろうと想像する能力である。
学校ではシンパシーを抱けなくても、エンパシーの能力を磨くことで、社会で主権者として生きていく力を養うのだという目的が見えれば、学校内で少々理不尽な社会が形成されていたとしても、それをどう乗り越えていくかについての考え方は変わってくる気がする。

残念ながら、現在の公立の小中学校では、シンパシーを感じない仲間は排除されやすく、エンパシーを持って仲間を受け入れるという土壌が形成できているかは心許ない。
できることならばたくさんの「他人の靴を履く」経験をして、受け入れ、受け入れられ、というステップを踏むことのできる学校であってほしい。

学校に通いにくい、居づらいお子さんがいるというのは悲しいけれど、今の眼の前の学校が辛いのならば、まずはその子にとっての居やすい環境を探すことは間違いではない(本当はそういう学びの場まで公教育で用意されるべきだけど)。
その子自身が受け入れられる経験をしながら学べることを学んでいく。
それでいい。
その経験のあとでも、他人の靴を履いてみる経験はできるのだから。

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