うちの子は発表をしない
発表をしないことに決めている、という衝撃の発言
「発表はしないことに決めている。だから手を挙げない。」
という我が子の発言に驚き、戸惑い、そしてどう対応すべきなのかしなくてもいいのか悩んでいる、という現在進行形の話です。
まだ結論めいたことは何も言えなくて、今はただ記録を残しておきます。
授業参観で見た我が子の姿
先日の授業参観で見たある光景。
授業の内容は、いろいろな表情やポーズの子どもが描いてあるイラストを見て、その子がどんな気持ちかを考えるというもの。
特に正解とか不正解とかはなく、同じ事象について、人はそれぞれ違う気持ちを抱くことがあることに気付ける、というのがねらい。
9割の子どもたちが挙手をして発表する中、うちの子は手を挙げない。
ちなみに、授業に参加していないわけではなく、盛り上がるところはみんなといっしょに盛り上がるし、プリントの課題にもしっかり向き合っている様子ではある。
原因を追究したくなってしまうけど
授業参観の少し前に聞いていたあの発言。
「発表はしないことに決めている。だから手を挙げない。」
これが本当なのか授業参観の際に確かめようと思っていた。
まだ小学1年生。
夏休み前の懇談では先生から
「いつも一番に手を挙げてくれるので助かっています」
と言われていたのに。
何で?いつから?という思いが脳裏をかすめる。
よくよく観察していると、いつも子どもの話によく出てくるあの子も手を挙げていない。
誰かのせいにしたくなる。
うちの子が変わってしまったのはあの子のせい?
そういえば最近生意気な話し方をするようになってきて、もう幼児ではないのだな、と思わされることが増えてきている気がする。
これも友だちの影響かしら、と。
いやいや立場は逆で、うちの子からかもしれないし、全く友だちは関係ないかもしれない。
誰のせいにせよ、誰のせいでなくても何にせよ、言い聞かせて何とかなる、親の言うことが全てだという時代は終わった。
ギャングエイジと呼ばれる世代の手前にいるのかもしれない
実際に、これからギャングエイジと言われる年代に突入していくのだ。
同性の特定の仲間を大事にして、大人よりもそちらの価値観を優先するようになる。
少々古い資料で恐縮ですが、文部科学省の資料にも以下のような記載があった。
確かに、身体も大きくなってきてこれまで届かなかったキッチンの蛇口に手が届くようになった。
抱っこしようとしてもそろそろ限界かもしれない。ふわっと抱き上げることはもうできない。
ギャングエイジは一般的には小学校3年生くらいからと言われているが、子どもの発達というのは線引きがあるわけではなく、スペクトラムだ。
いつの間にか状態が変化していくものだし、今日からギャングエイジが始まりました、なんてことはあり得ない。
もしかしたら、次の発達段階の入り口に立っているのかもしれない。
何となく自分の心にそう言い聞かせてみる。
それでも授業中に手を挙げないということは私の中であまり納得のいかないことではあるのだけど。
我が子に伝えることは何なのか。
そういう時期だからといって放っておくのはまた違う気がする。
伝えても伝えても伝わらないかもしれないけれど
発表しないことを口うるさく責めてしまう日もあった。
これは大変よろしくないことだと分かっている。
分かっていても止められないことがある。
だからこそ、大人だって正しくないときがあるのではと子どもも感じるのかもしれない。
それでも、冷静に考えてもう一度伝えるべきことは伝える。
授業は先生がみんなのために一生懸命準備されたものであること。
先生の問いに答えないのは、キャッチボールでボールを返さないのと同じこと。
(念のため付け加えておくと、先生との関係は良好で、先生のことは好きなようです。)
キャッチボールをしているのにボールが返ってこないのはどんな気持ちがする?ということは投げかけておいた。
抽象的な話を理解し始める頃だからこそ、比喩の表現も使って伝えてみる。
どう行動するのかは本人が決めるしかないが、考える機会は与える。
大人の言うことに納得できなくてもいいし、納得できずに自分の考えを生み出せるならそれでいい。
どっちかというと、価値観のちがいを経験するということに意味がある時期にあたるのかもしれない。
私と子どもは別の人間である
これからもこうして私と子どもの価値観のずれや人格の違いに悩む日々が来るのだろう。
まだまだ私にべったりの子だけど、時々ふっと見せる少年の顔。
そのたびに、この子と私は別の人間なのだと思い直す。
そんな毎日を送っていくのかもしれない。
その寂しさと成長の嬉しさを噛みしめながら。
味が複雑すぎてとても美味しいとは言えないけれど、大人らしくこれは咀嚼しなければならない。
子どもへの本当の思い
とにかくたくさんの価値観に触れられるといいと思う。
いろんな人がこの世界にはいることを当たり前のように知っておいてほしい。
世間は狭いかもしれないけれど、世界は広い。
そのことを忘れないでほしい。
その入口が私なのかもしれない。
君の考えには相容れないところがある、だから私の考えは伝えさせてもらうし、時にはぶつかるかもしれない。
私の考えが全てではないことに気付いてくれたらそれでいい。
それこそが私の本当の願いなのだから。
でもね、自分の考えは自分で表に出さなければ分かってもらえないのだよ。
そのことだけはいつか分かってもらえるといいなと思っている。
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