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病院でマリトッツォ

ずっと我慢していた体の不調があった。
重い腰を上げて病院へ行くにも、逆にコロナをもらって帰ってきたらと不安があった。死に至る病じゃないしな、と。

しかしとうとうのっぴきならない状況になってきたため、夫の勧めもあって重い腰を上げることにした。
まずは市民病院へ電話をかけてみる。
「えっと、こういうのは何科に行けばよいでしょう」
「皮膚科でいいと思いますよー。紹介状がないと5500円追加でかかってしまいますが、大丈夫ですか?」……
「はい、それは(やむを得ない……)」
「それじゃ11時までに来てくださーい」
あっさり言われ、少し気が軽くなった。

市民病院の診察券を用意しておこうと財布を探ったものの、あるべきはずのところにない。どこにもない。
え? あれ?? なんで……
そして、はたと気づいた。
子どもたちを連れて何度も通い、息子に至っては2度も入院させている、勝手知ったる市民病院。
わたし自身がかかるのは初めてじゃないかーい!
子育てあるある(?)に苦笑しながら身支度を整える。

コロナ蔓延後としては初めて訪れた市民病院。
赤外線(たぶん)で自動検温する機械が来院者の数だけ「正常な体温です。」と繰り返し、人々は足でペダルを踏むタイプ(これ好き)の除菌スプレーを掌に受けて進む。
わたしも体温を読み取ってもらう。「正常な体温です。」入口に立ってるおじさんになんとなく目礼しながら除菌して、受付へ進む。

診察券を作るところから始まって、皮膚科の受付にファイルを出してから始まる長い長い待ち時間。
皮膚科は激混み of 激混み状態。
ましてや予約も紹介状もないのだから、どれだけ待たされることになるかは推して知るべし。1時間や2時間じゃきかないだろう。
娘が今より小さかった頃は、院内のエスカレーターを何度も昇り降りして時を稼いだものだった。
このコロナ禍に待合コーナーでぬぼーっと座っていては、よろしくないものをもらってしまう可能性もあるだろう。

そこで、まだ午前10時半ではあったが、お昼を食べることにした。基本的に、どんなときにも食いっぱぐれたくないのがわたしである。
この病院にはコンビニが入っている。息子の入院に付き添いながら、いったいどれだけここの簡易食のお世話になったことだろう。

鶏ごぼう弁当的なものを手にし、冷蔵コーナーに視線を向ける。
セブンイレブンなのである。
ということは……?

はい! あったよ! マリトッツオ!!
でで────────んっ

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(※これは自宅最寄りのセブンで買ったマリトッツオ)

ありがとう偉いひとたち病院のセブンにちゃんとあるマリトッツォ  柴田瞳

いやー、ありがたすぎて一首詠んでしまった。
人生初、マリトッツオ短歌。

弁当とマリトッツオを買い求め、病院の外へ出る。
病院の目の前に広がる公園の広いグラウンドを横切り、誰もいないエリアのベンチに陣取って、午前11時にランチと甘味をキメる。
梅雨の晴れ間の湿った風に肌を撫でられながらの食事はなかなかの気分転換になった。
こんなことにさえも非日常感を感じて嬉しくなってしまうなんて、幸福を感じる閾値が下がりすぎである。

皮膚科の待合に戻り、持参した文庫を読みふける。
この時点で受付から1時間半ほど経っていたものの、モニターにわたしの受付番号が表示される気配はない。
そこからさらに1時間が経過。特段いらいらすることはない。家事も育児も仕事もしなくていい、贅沢な時間なのだ。
無防備にもうとうとし始めたとき、とうとう名前を呼ばれてしゃきんと身を起こす。
トータル約2時間半、そこそこ充実した待ち時間となった。

担当医は非常に「女子っぽさ」を思わせる男性医師で(という捉えかたにもバイアスがかかっている気がするが)、かわいい仕草でにこにこ話しながら丁寧に患部を診て、その場で簡易手術することになった。
麻酔を打たれ、医師と看護師のなすがままになっているうちに、体の異常の一部はあっさり取り除かれた。
翌週と、半年後くらいに再来院することで、完全に終わるらしい。
その頃に医療崩壊が起きていなければいいなと思いながら処方箋を受け取り、お金(は、はっせんさんびゃくじゅうえん……!)を支払って市民病院を後にした。

育児のつらさを抱えこんでいると、自分をあたりまえに大切にすることにすら罪悪感を覚えてしまう。ケアされるのでなくケアする側でいなければならないような思いこみができてしまう。
子どもを持たない人たちの一部が以前となんら変わらず遠方へ出かけ、思い出作りをしているのを見るにつけ、病院にかかることさえためらっていた自分を思い、胸がちりちりすることもある。
学校や保育園からも、休日もなるべく生活圏の外へは行かないようにと通達されているけれど、そろそろ限界だ。
せめてワクチンを打ったら、感染に気をつけながら子どもたちをせめて市外へは連れ出したい。「せめて」が並ぶ消極的な望みだけれど、切実である。
そうでもしないと、また病院で買ったマリトッツオくらいでときめいて短歌を詠んでしまいそうだ。

生きているうちに第二歌集を出すために使わせていただきます。