見出し画像

失うものは何もない。楽しく生きていけるよ

私の状況が動き出した。無職が終わる。

今までとは全く違う業界、職種だけれど、扱う「モノ」は同じというところが頑固な私っぽくて、私が昔からやってみたいと考えていた仕事ナンバー2である。(出版編集がナンバー1だった)

最近は強運だと思う出来事が多かった。Twitterで5名にしか当たらないサンダルと靴下のセットが当選した。50名に当たるマスカラも当選した。書類・試験で合格したのも嬉しくて、苦手な面接で合格したのはさらに嬉しかった。受かるような受からないような気がして、失敗した点もあったから手ごたえもなくて、合格が分かった夜、実は泣いた。

私は就活時、面接が大の苦手だった。苦手というか、今思うと嫌だから対策を先延ばしにしてほぼ対策をしていなかった。自分の長所に自信もなかった。やりたいことを探しきれなくて、ぴったり合う仕事が見つからなかったし、分かっていないから妥協点も決められていなかった。

今回は、他業種他職種だったから、かなり準備をした気がする。私の経験の何がこの職種で役に立つのか?何をしたいのか?なんで前の職でなくてこの職をやりたいと思ったのか?

今までの私は凡人なのにプライドが高かった。最初の職場で怖いくらいに褒められたんだが、その上司が色々とヤバい人間だったので職場での自分の振る舞い方や自分への自己評価はかなり歪んだ。元々歪んでいたから逃れられなかった面もある。

今私が失っているものって「仕事」「職業」「会社員と言う肩書」くらいなのだけれど、それでも、幼稚園児から肩書が途切れたことがなかったので、「休職中の会社員」ではなく退職してからは、正直キャリアについて失うものはもう何もない、と思った。チャレンジ次第でどうにだってなれる。どん底まで行ったら上がるしかない、と同じ理論(親のすねかじりのただの無職がどん底かは分からないが)。でも、プライドは以前に比べればすっかりなくなったと思う。

コロナのおかげもあって、苦手な人とは距離を置けるようになったし、好きな人でも頻繁に会いすぎることがなくなった。生身の人に会って話すのが好きである一方で、人と話していると無意識に、無職の私は卑屈になったり自分から卑下したりすることもあった。同年代の友人の多くが正社員として働き、もしくは結婚・出産をしていた。焦りを感じた。しかし一人で居る時間も多かったので、友人知人に相談させてもらいながら、自分で自分の道を考えることができた。

休職じゃなくて退職したことも大きかったと思う。やりたい職種だったので未練がかなりあったが、前の業界・職業から離れる覚悟もできた。この変化の激しい時代、いつかやりたければ戻って来れるさ、とも思えたし、編集者より趣味でも文筆家になりたいという方がしっくりきた(人にインタビューするより、自分の意見を書くことが好きだから)。

頭が固かった私が、前よりは柔軟になったと思う。今なら何にでもなれると思う。「人生は一度きり」、そんな言葉何度聞いていつも当たり前じゃん、と思っていた。その人生はどれくらい時間があって、その中でどれくらいが自由に動ける時間なのか?私にとって人生でやりたいこと、成功と思うこと、目標って何?愚かだったので「敏腕編集者になりたい」(笑えるwww)とか考えてたけど、そうじゃなくって、楽しいならいいけど、死にそうな顔して敏腕編集者になってプライベートで何も残らないとしたらそれは私の夢とは違う。有名になりたいって思ったことが何故かあるけど、ぼちぼちやっていって自分と私の周りの人が幸せに思えるならいいし、有名になるとしても、何かをやっていってそれがうまくいって初めて注目されて有名になるんだと思う。

私自身はポンコツ寄りのの平凡な人で、私の夢も平凡なもの。別にお金持ちにならなくていいし、テレビに出たいなんて思わない、文章は書いていきたいなあ、いつか家族が欲しい。そのために自分を磨いて楽しんで自信を持ちたい。自分が楽しければ、自信は持てる気がする。自信という言葉が正しいか分からないけど、楽しんでいる自分を好きになれる、ということ。

これからまた違う世界に踏み出す自分が、かっこよくて、輝いていて。こう思うのには前の業界が汚く見えていたからなんだと思うんだけど。今の自分が結構好きである。新しく踏み出す自分が本当に楽しみで、もっと気楽に、自分が楽しい程度に食べていける程度に働いていって、生きていきたいと思う。


この記事のサムネイルは海。
海を目の前にすると、自分ってなんてちっぽけな存在なんだろう、と思う。たかだか私が生まれて30年も経っていない、死んだ祖父母が生まれたのも100年前くらいだったけれど、当然ながら海はもっともっともっと前からそこにあり続ける。それは本当は大地も一緒なんだけど、海は波があって、簡単に人の命を奪うことだってできる。地面の上は焼け野原だった時代があってもそれが残っていない。海はきっと残ってる。
まあ、細かいことは置いておいて、水平線がすーっと伸びる、広大で生きているような海を目の前にすれば、大概のことはどうでもよく感じる。海は広いな、大きいな。
ちっぽけなりに、これまで生きてきた、これから生きていく人間。

この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?