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資本論理的蛮行―なぜその経営は"遅れている"のか?

やばん-じん【野蛮人】(1)未開人。蛮人。(2)粗野で教養がない人。不作法で粗暴な人。

特定の国家に属さず辺境地に暮らし、高度な文明や技術を持たない原始社会の少数民族を我々はしばしば「野蛮人」と表現する。これは「豊かな社会と高度な文明に囲まれた国家に暮らす我々と比べて後進的な人々」という文明史観に根差した見方だが、モラル的な理屈として彼らのことを「遅れている」と表現してはいけないのは分かる。では、何故彼らは文字を持たず、カヌーの作り方を覚えず、農具を捨て…といった暮らしぶりを変えないのか。これを遅れていると言わずして、どう理解すればいいのか。

このような見方に対して、実はこれは誤った理解であり、彼らは国家からの支配や収奪から免れるために「戦略的に・意図的に」「野蛮行為を」選択している―つまり辺境民の日々の生業や社会組織、文化的資質は、未開のままに取り残された古代からの伝統や慣習ではなく、外部国家への編入と、部族内部での権力の集中を抑止するために意図的に設計されたものである―こんな考え方が存在する。

一見すると粗野な行為も当事者なりの合理性があり、それを評価できない原因は、我々の一方的な価値観の押し付けや評価技術の不足にあるのではないか。そして私が日々向き合っている「経営と市場の対話」の世界にも、同じ問題が蔓延っているのでは―それが本エントリ―の主題である。

資本論理的蛮行」はこの主題に向き合うために表現した私の造語で「資本(市場)の論理に照らし、一見するとその合理性が認められにくいコーポレートアクション」を指す。もちろんそのアクションを「野蛮だ」と言いたいのではなく、そう見なされがちなアクションの背後に潜む資本の論理以外の合理性を見出したい、という問題意識による。上場企業の経営者は日々重要な意思決定を行い、またそれを公に開示するが、時に経営陣の戦略的意図と投資家の受け止め方に大きな乖離が生じ、大きな緊張が走る局面すらある。

経営陣が何らかの意図をもってそのアクションを採ったという理屈は分かる。であれば、なぜ彼らは実質的意味のなさそうな株式持ち合いをし、高値でM&Aを行い、株主価値を毀損しながら上場し続けるのか。

私の趣旨はあくまで問題提起であり、現時点で私自身が答えを持ち合わせていないが、これらのギャップにこそ経営や市場を理解する手掛かりとなり得るため、様々な事例を抽象化し記録する。対話の難しさの多くは、価値観の相違もさることながら、それを醸成する「経営組織を理解するための体系的な技術」が圧倒的に不足していることに起因している気がしてならない。


株式の持ち合い

保有現預金が目先の投資機会に対し過剰であれば、速やかに株主還元に回すべきである―これが資本市場の「常識」だ。A社は事業運営に必要な現預金水準を月商ベースで開示しており、業績好調もありその水準を優に超えようとしていた。「ここまで現預金が高水準であれば、株主還元の好機であろう。後はその発表がいつになるか」それが当時のA社株の論点だった。

そんな資本市場の期待とは裏腹に、A社が選択したのは、同社株を一定割合保有する大株主B社の株式取得、つまりB社との「株式持ち合い」であった。

「株主還元に回す選択肢もあったはず。B社との持ち合いを選択した意図は何か」。アナリストから追及を受け、日頃冷静なA社経営陣にしては珍しく、時折感情を乗せながら意図を語る姿が印象的であった。

B社との日々の現場レベルの連携において、これまでは株を持つ・持たれるの関係にあり、B社に対しどこか気後れする部分があった。本件で一部でもA社株を取得することで、現場にもある種の対等意識が芽生え、連携が前向きに進めば。資本市場には理解されにくいかもしれないが。

上場企業の株式持ち合いは、少数株主の権利棄損の観点から時代に逆行したアクションと見なされる可能性がある。一方で本質的に株主価値の最大化に繋がるアクションであれば肯定的な見方もできる。持ち合いにおける現場レベルの関係性の変化やそれによる業績寄与をどのように理解し、それを説明するか。A社経営陣の主張の真意を理解することが、企業の資本連携と事業連携の関係に新たな示唆を与える可能性がある。

非公開化・同意なきTOB

C社はマクロ環境が激変する現在、時代の趨勢にマッチした競争力あるアセットを保有している。2023年末現在、様々な企業が相次ぎTOBやMBOによる非公開化を選択するなか、C社にとっても対岸の火事ではない。C社経営陣は自社の置かれている状況について、次のように語る。

我々には常に被買収リスクがつきまとう。我々のアセットを魅力視する相手は多い。非公開化は対外的には説明がつくが、社内的な理由を付けるのが難しい。同意なきTOBは避けたい

上場企業は社会的公器であり、株式市場からの調達ニーズが無く、株主から横やりを入れられたくなければ非上場化してプライベートカンパニーになるべきである、というのが資本市場側の一貫した論理であろう。であればなぜ、日本には約4,000社も上場企業が存在しているのだろうか。上場と非上場化、敵対的買収による被買収側の組織への影響、価値創造・棄損のメカニズムを正しく理解し、それを適切に企業価値に反映できているのか。我々の理解が圧倒的に不足していると感じる。

多角化経営とコングロマリットディスカウント

多くの事業を抱えるコングロマリット企業において、各事業単体の価値の総和ほどには企業価値が評価されない。このようなコングロマリットディスカウントという現象は、私も実務の現場で多く見てきた。極端な例では、上場企業同士の株式持ち合いにより、政策保有株の時価評価がその企業の時価総額を上回ってしまい、本業がマイナスの価値となってしまうこともある。

シナジーとしてプラスの付加価値が出ていないとしたら、その事業が企業グループの中にある意味がどのくらいあるのか。価値創造ストーリーとして、事業間の位置付けやシナジーについて説明がつけば、仮にディスカウントされる部分があっても一定程度抑制される可能性がある。ここではそのストーリーを企業側で語れないことが課題となるが、シナジー創出の枠組みやそれを適切に評価する技術が実務的にも求められているし、企業の境界論的な視点からコングロマリットがいかに正当化されるか(もしくはされないか)という観点も非常に興味深い論点に感じる。

親子上場

最後のトピックは親子上場だが、グループ経営の一環として主要子会社を次々と上場させる企業集団が存在することは事実である。

親会社の支配権を残しつつ子会社の経営陣に対し「一国一城の主としての経営意識を醸成する」ことや、資金調達経路の確保、社員のモチベーション向上、上場企業であることのブランド価値創出の利点があるとされる。

一方、親会社と子会社の少数株主の利益相反がガバナンスの問題点として指摘されてきた。子会社の株主から見ると、親会社が自らの利益を優先させることで、子会社株主の利益を損なう可能性があり、親会社株主から見ても、非支配的株主持分として利益をグループ外に流出させることになる。

グローバル市場では親子上場は一般的ではなく、日本特有の課題とされてきた。特に2018年6月のコーポレートガバナンス・コード改訂時に親子上場のデメリットが指摘されたことなどから、親子上場は減少傾向にある。

この論点においても、親子上場における組織への影響に対するメカニズムの解明や、その企業価値への評価技術が追い付いていない分野と捉えており、日本固有という特殊性も含めた興味深いテーマと感じている。

「資本論理的蛮行」は「組織論理的英断」か?

上記の事例を総じて見た時に、「資本の論理」と「組織の論理」における理解やコンセンサスの非対称性が非常に大きいことが課題に映る。要するに上記アクションに対する組織への影響に対する理解と、それを適切に企業価値に織り込む技術が不足しているということに他ならない。上記の課題意識に照らし、私も一介の当事者として、探求の途に就きたい。

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