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◆読書日記.《原佑『ハイデッガー』――シリーズ"ハイデガー入門"4冊目》

※本稿は某SNSに2020年2月16~17日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


原佑『ハイデッガー』読了。

原佑『ハイデッガー』

 前にも書いたがこれは初版が1958年のもので、まだハイデガーが存命の時期に出版されたハイデガー本なので若干情報が古い。
 ハイデガー語も訳語が定まっていないようで、他のハイデガー関連本と用語が違っている。
 という事だけでも読みにくい本だった。
 それだけでなく、ちょっと「どうなの?」と思っちゃうのは、あまりの引用の多さ。
 「パッチワークかよ!」ってくらい引用が多い。
 著者自身の解説はさほど難しくもないのだが、肝心な部分を説明しようとすると必ずハイデガーの書籍からの引用文で説明されてしまう。

 ハイデガーの言葉を細かく細かく切り張り切り張りしながら説明していくので、まるで「ハイデガー総集編」を見せられているようで損した気分になる。
 そんじゃ、ハイデガーの本を直接読んだほうが早いんじゃないの?という感じ。

 当然、説明の最も肝心の部分はハイデガー自身の文章が引用され、ハイデガーの文章自体が固い翻訳調で難解な言い回しなので、著者の説明よりも何段階も難しい。
 何のためにこの人はハイデガーの著書を解説しているのだろうか。

 まだハイデガーが日本ではさほど有名でなく手に入る訳書も少ない時期だったから、本当に「ハイデガー総集編」を作るつもりで書いたのかもしれない。

 という事もあって、本書を現代読む必要性は正直あまり感じない。
 本書をじっくり読む時間の余裕があるんだったら、ハイデガーの本に直接トライしたほうが手っ取り早い。
 ってなことで、読んでる間中「あーもう面倒くさい!」って感じだった。

◆◆◆

 全体の印象はそんな感じであったが、とりあえず本書の内容を見て行こう。

 本書の前半はハイデガーの特に後期思想について、主著『存在と時間』の内容を踏まえて解説を行っている。後期ハイデガー思想が前期思想とは「転回(ケーレ)」という変容を経ているとして区別されている。

 だが、著者は後期ハイデガー思想は、書かれずに未完として終わった『存在と時間』の後半部である「第二部」で構想されていた内容を語っているのではないかという主張から成り立っている。

 『存在と時間』の第二部とは「テンポラリテートを手引きとした存在論の歴史の現象学的な解体の概要」と題された部分である。

 この第二部は、第一部で分析されたハイデガーなりの「存在」解釈=「存在の時間性/歴史性」を元に、西洋思想史の中で確立されてきた「存在」論の流れを近代から古代に逆向きにさかのぼりながら批判していくという内容となる。

 最終的な結論は古代ギリシャの「アレーテイア」まで「存在」論の解釈をし直すべきだ、といった形になる。

 西洋思想史が作り上げてきた「存在論」は間違っており、その間違いはどこから始まっているのか、というので古代ギリシャ思想までさかのぼってその間違いの初端を特定しようという試みなのだ。

 後期ハイデガー思想ではこの考えを論文や講義など様々な形で展開しているというわけだ。

 ハイデガーの『形而上学入門』では古代ギリシャ思想を検討するし、『世界像の時代』では古代~中世の存在論に言及する。デカルトやライプニッツが俎上に上がる。
 『カントと形而上学の問題』ではカントを題材にし、『ヘーゲルの経験概念』ではヘーゲルを、『ニーチェ』Ⅰ~Ⅱではニーチェが分析対象となる、と言ったように。

◆◆◆

 さて、読み進めていくうち「やっとこの著者自身の"本当の声"が聴けた」と思ったのは、最後の最後「結び 批判的展望」という節。

 50年代当時の著者が、晩年ハイデガー思想の要点と考えていたのは「思索から詩作へ」という所のようだ。この考え方自体は面白い。

 著者が本書を出版していた時期のハイデガーの考え方のポイントは「単純性」だったそうだ。

 ものを見る視点はプラトンから「向正性」に向けられ、現存在-存在関係が主観-対象関係とに分裂した。
 それをもっと古典的な「単純なるもの」に引き戻そうという考え方があったのかもしれない。

 つまり、複雑な意味が込められた主-客関係ではなく、アレーテイア(非秘匿性)的な視点に戻ることを考えていたのだろう。

 非秘匿的な見方というのは、元々存在が持っていた「隠されることなく開かれているもの=真理」を取り戻すということなので、ハイデガーのそういう考え方の傾向がフッサール的超越論的現象学との親和性があったのかもしれない。

 ハイデガーは『存在と時間』で現象学的方法論を採用して存在について分析している。

 それに対してフッサールの現象学の重要概念「エポケー」も、事物に付加されている様々な日常的意味を通電遮断することで「対象そのもの/現象そのもの」を理解しようという試みだった。
 こういった所はハイデガーの「非秘匿的な見方」と似ているかもしれない。

 だが「厳密学/根本学」としてのフッサールの超越論的現象学と、ハイデガーの解釈学的現象学とでは、根本の部分で考え方が違うので、そう言う所が後にハイデガーがフッサールと袂を別った原因ともなったのだろう。

 著者がハイデガーの後期思想の行き着く先を「思索から詩作へ」に見たのは、先程も述べた「単純なるもの」の考え方や「言葉へのこだわり」といった部分とも無関係ではないと思われる。

 ハイデガーは『ヘルダーリンの詩作のための解明』で「作詩されたもののために詩の解明は、おのれ自身を"無用ならしめる"事に努めなければならない。あらゆる解釈の最後の、しかしまた最も困難な一歩は、詩の純なる実在の前で己の解明を携えて"消え失せる"という事の内にある」と言っている。

 これがハイデガー的な「隠れなき存在を非秘匿的に見ること」なのではないかと思う。

「『存在』を思考するとは、その本質の言いもとめに言い応ずる事である」(ハイデガー『講演論文集』)というように「隠れなく現れている」存在の非秘匿的な現出をそのままの言葉で「言い応ずる」のがハイデガー的な「詩作」の解釈だった

 それが、西洋思想の伝統的な存在認識を理論的に進めていく事(思索)ではなく、そういった「意味」も幾重にも覆われた存在に張り付いた膜を剥がして、本来の非秘匿的な存在をそのまま見て、そのままの言葉の「言い求め」に従う事(詩作)という、後期ハイデガーの「思索から詩作へ」の考え方の要点だったのではなかろうか。

 後期ハイデガーの考え方は、そのように「理論を深化させていく事の先に真理がある」という西洋の伝統的な哲学観を否定し、「そうではなくて、真理といったものは目の前にある存在そのものにそのまま隠れなくあるものなので、それがそのまま真理なんだ」といったような「単純なるもの」への志向のニュアンスがあるように思える。

 そういった形で西洋哲学の伝統を古代の時点から覆そうという試みが、ハイデガーが『存在と時間』の構想段階からから一貫して考えてきた「西洋哲学の解体」という事なのかもしれない。

 ハイデガーは「言葉にこだわる思想家だ」というのはこの本の著者の言い分だが、ぼくが考えるにハイデガーの言葉へのこだわりは、やはり「古き良き古典的古代的ヨーロッパ主義」的でもあると思う。
 つまり、ハイデガーの根はやっぱりヨーロッパ的なのだと思うのだ。

 これが日本的な思想ともなると「言葉」を否定するという考え方にもつながって来る。実践主義的な禅思想なんかはそれにあたるし、「〇〇道」といったものも実践主義だ。
 ハイデガー的に言えば、日本は「言語化する前の"了解"」を重要視していて、とにかく実践を積み重ねていって、その中で"体得"していったものの先に言葉ではない「悟り」がある。――そのために職人的仕事は言葉としての「マニュアル化」をせずにひたすら作業を積み重ねさせて身体で分からせる、といった方法がとられる。非言語主義的な思想。
 日本の思想の中には、そういった非言語的な思想というものも色濃いのではないかと思うのだ。

 つまり、ハイデガーの志向した「西洋哲学の解体」は普遍的な思想に対応するものではなく、あくまで「"伝統的"西洋哲学の解体」というのが本質だったのではないかと思うのだ。


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