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舞台『誠の群像』感想


「私の好きな人、沖田さんっていうんだけど…もう死んでて…」
そう打ち明けた時の友達の、引き攣った顔が忘れられない。当時16歳だった私は司馬遼太郎『燃えよ剣』の沖田に魅了され、すっかり頭がおかしくなっていた。図書館の歴史コーナーで新撰組関連の書籍を読み漁り、沖田総司の出てくる小説は可能な限りなんでも読んだ。映画、漫画も然り。そのスタンスは今でも変わることはない。
沖田総司とは、いかなる人物か。残された資料は少なく、それゆえに作品が変われば、同じ沖田総司であっても人物造形が変わってくる。さまざまな創作者の、さまざまな解釈の沖田に出会うことは、楽しい。
でもやっぱり、私を狂わせた沖田総司は、司馬遼太郎の書いた沖田なのだ。『誠の群像』はオリジナル脚本だが、『燃えよ剣』『新撰組血風録』を原作としている。つまり、私の愛する"司馬沖田"の原液をそのまま抽出した沖田総司に出会える、この上なく最高の作品だった。

本稿では、多彩な登場人物達の誠を描き切った『誠の群像』の魅力について、三つの観点から感想を記したい。


◆芹沢鴨の「虚構の切腹」が意味したもの

新撰組モノを書くのは難しい、とよく言われるらしい。その理由の一つとして、複雑化した政治情勢に関する説明が多くならざるを得ないことが挙げられる。池田屋事件以降、新撰組は下り坂を転がり落ち、派手な見せ場が少なくなることも要因のひとつだろう。そういった制約のなか、たった90分で新撰組の興亡を描き切ろうという目論見は、一見、無茶な企画のようにも思えた。
だが、その心配は杞憂に終わる。新撰組の成り立ちから滅亡まで丁寧に追うことをやめ、複雑な政治情勢の描写を思い切って省きつつ、各人物の心情、それぞれの胸にある「誠」にスポットライトを当てた脚本にはしっかりとした一本の筋が通っており、驚異的だと感じた。
『誠の群像』は、司馬作品からいいところ取りをしてパッチワークのように繋げた作品ではなかった。むしろ司馬作品はあくまで下敷きとして利用し、大胆な改変をも加えていることが、功を奏しているのだろう。

そうした改変のなかでも特に印象的だったのは、芹沢鴨の切腹シーンだ。
芹沢は史実では、女を屯所に連れ込み、酒に酔って寝ているところを土方、沖田、山南、原田が暗殺したとされており、ほとんどすべての新撰組作品で、この芹沢暗殺の場面が描かれる。はかりごとによって切腹させられたと描かれることが多いのは、芹沢の腹心の部下、新見錦だ。
ところが、本作では芹沢が切腹させられることになっており、驚いた。この改変には、どんな意味があるのか。
はじめ、尺の都合と片付けようかと思ったが、この物語における「切腹」の象徴性を考えると、無視できない問題だと感じた。
土方歳三は農民の出でありながら、武士より武士らしく生きようとする人間である。江戸幕府に長年仕えてきた旗本までもが徳川を見捨てる中、最後まで幕府に忠義を尽くすことこそ真の武士であると考えており、それを実現するのが新撰組だ。
新撰組の隊士は、農民だろうが商人だろうが、出自を問わない。ただし新撰組に入ったからには全員武士になる。武士になるとは、どういうことか。武士だけに許される、切腹ができるようになるということだ。
土方は厳しい法度で隊を縛り、守れないものには切腹を言いつけたが、それは新撰組を武士より武士らしくするための方策なのだと、商人出身の隊士、高田に切腹を言いつけるシーンから伺える。高田は、切腹から逃げ出した。つまり彼は、真の武士にはなれなかったということだ。
このシーンを踏まえたうえで、芹沢が切腹させられる場面について考えてみると、ここでもし彼らが筆頭局長を史実通り「暗殺」したのでは、土方のこだわる武士らしさにブレが出てしまわないだろうか。(芹沢鴨は、近藤たちと異なり本物の武家出身だ。そんな彼を酒に酔わせて暗殺したと言い伝えられている。この姑息さ、のちに最後の武士とまで言われる新撰組の面白さを感じるポイントではある)
司馬の描く土方はニヒルな喧嘩屋であり、彼の第一の目的は近藤を頭に据えて、新撰組を天下一の武闘派集団にのし上げることである。だが、本作の土方の信念は、新撰組を真の武士の集まりとするところにあった。だからこそ、ここで土方は武士の精神に悖る行為をとることはなかったのだ。芹沢は死の恐怖に怯え、自ら腹を切ることができなかった。武士が武士としての本分を忘れ、武士でない土方が切腹に拘る。非常に印象的な、対比の場面だった。

さらにこのシーンが、実は山南敬介の切腹と対比になっているのには、感動してしまった。近藤たちからは煙たがられて排除された芹沢の情けない切腹と、近藤の嘘泣き。みなから愛された山南の見事な切腹と、近藤の本気の涙。こんなエグい脚本、聞いたことないよ……

◆山南に、自分の代わりに生きよと願った沖田の切なさ

失踪した山南を追う沖田。あらゆる新撰組作品で幾度となく見てきた名シーン。だが本作の沖田は、司馬の沖田と一味違う。
山南を追ってきた沖田は、なんと山南を恋慕う遊女、明里を連れて来ていた。つまり彼は、山南に死を思いとどまらせ、愛する女と共に遠くへ逃げて生き延びてほしいと願ったのだ。だが局長の命令は、法度を犯した山南を連れ帰ること。山南を逃しては、タダでは済まされない。
ゆえに沖田は言うのだ、「私が腹を斬れば良い」と。

いや、待って。待って?!
ここでオタクは突然の妄想モードに入るんだけど、沖田さんは余命短い自分の生を、どうせなら山南さんのために使っても良いな、なんて思ったりしていませんか?好きな女と両想いで、健康な体があって、優しい彼には、ここで死んでほしくない。切腹なんかしないで、長生きしてほしい。淡い恋すら実らずに死ぬだろう自分が、彼の代わりに腹を切ればいいと、思ってやしませんか。思ってますよね。悲観的な諦念とも違う、自分の命に対する、不思議な執着のなさ、明るい儚さが、ものっすごい滲む表情と声色をしていた。もうね、泣いた。
それで「ありがとう」って感謝した山南さんも、別に逃がしてくれてありがとうって言ったわけじゃない。沖田の優しさ、心遣いに感謝して、彼のためになら死んでも良いなって心から思っちゃった。あーあ、せめてどちらかの心が汚ければ、山南敬介は生き延びてたのにな、と思わざるを得ない。狂おしいほど心が掻き乱される名場面。

山南の誠はずっと、人としての誠意ある美しい生き様にあった。そこが土方の誠との違い。だからはかりごとを嫌ったし、恐怖で人を支配する新撰組に、疑問を抱いた。本当は逃げるつもりだったのに、琵琶湖の美しさに足を止めるほど、美しく清らかなものを愛した山南。だが彼と対立した形になった土方も本来は、紫陽花や俳句を好むような男なのだ。似たモノ同士の男なのに一人は仏、一人は鬼として生きている。そうした運命の対比もまた、情緒をおかしくする。
山南を無事介錯した沖田。これほど辛いことはないだろうという時でも、その顔には常に微笑を浮かべている。ただし、その微笑は哀しげだ。

綾凰華さんの沖田総司は、「神様とか諸天とかがこの世にさしむけた童子のような気がしてならない」と小説内で山南が評したような、美しく純粋な"少年"そのもののカタチをしている。
高く明るく澄み渡り、かつ柔らかさも併せ持つ発声。揺れる涼やかなポニーテールと軽やかな身のこなし。常に微笑を浮かべている可愛らしい口元と、優しげな目元。理想と寸分違わぬ沖田総司が、生身の人間として眼前に現れる衝撃。
はじめ、宝塚とはいえ女性の方が演じる沖田ってどんなもんなのかなーと、一抹の不安を感じないでもなかったが、いざ観てみるとまっったくの、違和感ゼロ。というか、司馬の描いた中性的な美少年を具現化するのに、これほど適した器があろうかというほどだ。考えてみればアニメ作品では一時期、沖田総司、またはそれをモデルにしたキャラに、少年キャラを得意とする女性声優が抜擢されることが度々あったのだから、宝塚男役の演じる「中性的な美少年」の沖田総司、むしろ最適解ですらある。

綾さんの演じる沖田は、心優しい。邪気のない、雲間から差し込む陽の光のような、場を照らし、人の心を温める雰囲気を纏っている。
「なら、私にも黙っていれば良いのに」
といたずらに笑う沖田の愛らしさ!『血風録』では土方が、沖田を可愛がっていると書かれているのだが、綾沖田の愛らしさを目の前にすれば、誰だって懐に入れて可愛がりたくなるものである。(続く土方の「お前は別だよ」でオタクは脳みそが溶けた)
「目を瞑って人を斬ったのは初めてです」
と溢す声。繊細な優しい心が傷だらけになっている様が目に浮かぶ。
「これ、良かったら履いてください」
と土方に下駄を躊躇うことなく差し出す沖田の、自己犠牲を犠牲とも思っていないような、あっけらかんとした明るく穢れのない声音。

だが同時に、綾沖田はどこか張り詰めたような哀切をも背負っている。
姉のおみつに、故郷に連れて帰りたいと言われた時の沖田。
「私の命は、新撰組と共にあります」
そう語る彼の眼差しの、美しさ。自分の命の儚さを悲観するのではなく、命を生き抜こうと心に決めた青年は、哀しいまでの強さを胸に秘めている。
沖田は、すらりと刀を抜く。菊一文字だ。
「この刀はもう、七百年も生き続けているのですよ」
永遠の命を生きる刀と、人の短命との対比。原作小説のなかでも屈指の名場面。綾沖田は目を細め、うっとりと笑みを浮かべ、刀を惚れ惚れと見つめている。剣に生きた天才だからこそ悟った人生の本質をまっすぐ見据えて、静かに納刀する。その所作の圧倒的な美しさ!

そして沖田といえば、優しさと残酷さが同居する人間でもある。芹沢と同衾する女を斬れと言われた沖田、
「可哀想だなぁ」
そう言った直後に土方に、
「私情を挟むな」
と小言を言われ、
「ハイ」
と返事する綾沖田の声のトーン、まるきりガラリと変わるのだ。人を斬ることに対する、恐ろしいまでの割り切りの良さ、それもまた沖田総司の底知れぬ魅力である。

原作者・司馬遼太郎ですらも「不思議」だと表したこの多層的な魅力に溢れた青年を生き切った綾凰華さんに、感謝の言葉を伝えたい。本当にありがとうございました。

※少し話は逸れるが、原作ではお雪と沖田が土方の人間味を読者に伝える物語上の役割を担ったが、本作ではその役割を、主にお小夜が担っているように感じた。そうでもしないとヒロインが霞むのでそれは良いのだが、沖田のことを可愛がらずにはいられない土方と、土方と共に生きたい沖田の成分は残されたため、ただただ仲良しの二人がお出しされ、狂った。
まずもって登場シーン、土方から沖田へのノールック刀渡しに信頼の強さが滲み出てて最高だったし、極めつけは沖田の最期、あの世でも地獄でもずーっと一緒にいる気満々の言葉に、両手を合わせて拝んだ。あざーす。

◆幕引きは銃の音で 最後の武士、土方歳三

宝塚の沖田総司がめちゃくちゃに可愛くてキャスティングの勝利であることはわかったし、観終わった今となっては、当然の結果のようにも感じている。
だが、宝塚の土方歳三がこんなにもカッコいいなんて予想できただろうか?!いや無理やろこんなん!!!なんなんですかあの切れ長の、触れるモノ全部斬る、みたいなクールな目つき!口の端をちょっと上げたり下げたりする表情!!!伊達男!!声までカッコいい!!惚れる!!!!
あと勝先生もやばい!!巻き舌の江戸っ子口調!!きっぷのよさ!肝の座り方!!カッコいい!!惚れる!!!
とかく「男性の愛するもの」だという偏見が付き纏う歴史コンテンツ。昔に比べると随分と空気も変わってきただろうが、おそらく歴史小説の主要な読者は今でも中高年男性であろうし、新撰組の女性人気についても、「男の浪漫を理解しているのか」と懐疑的な目を向けられることも少なくない。だがそんな偏見などどうでも良くなるくらい、ともかく望海風斗さんの土方はカッコいい。全人類が、あのクールで不器用で、しかし己の生き方をまっすぐに貫き通す男のことを、好きになってしまうだろう。
なかでも本作の土方の痺れる場面は、最後にやってくる。
一人、決死の斬り込みに向かった土方を襲う銃弾の雨。だいたいの作品であればここで土方は息絶え、華々しく戦死したところで物語の幕が降りる。だが、本作の土方はまだ少しだけ意識があり、私は、おや?と注目してしまった。
身体に無数の風穴を開けられ、瀕死の土方。そこに新政府軍参謀の黒田が駆け寄ってくる。刀を握りたがる彼に、黒田は恭しく彼の愛刀を差し出すが、もはや土方には切腹をする力が残されていなかった。
本作の土方がどれだけ武士であることに拘ってきたか、その象徴が切腹であったかを考えると、なんと切ないシーンだろう。代わりに土方は、黒田の銃で「介錯」してほしいと頼む。

「新しい時代の音を聞いて、俺は死にたい」

本作屈指の名場面、名台詞。
時代の流れには、もはや逆らえない。新しい時代の幕開けと共に、古き時代の生き物は滅びなければならない。ならば最後の武士として潔く腹を切るように、勝者を祝福しながら、武士の時代の幕を自らの手で引こうとした。だから、銃で殺してくれ、ではなく「介錯」してくれ、と土方は頼んだのだ。
滅亡の中、最後まで武士の誇りを失わなかった新撰組副長の生き様には、涙が止まらなかった。

以上、長々とした感想にここまでお付き合い頂きありがとうございました。宝塚で新撰組モノといえば他には、『壬生義士伝』があるのだとか。こちらも原作小説が大好きなので、いつか観てみようと思った。

(2023.6.18執筆)
※なお本作はオンデマンド配信にて鑑賞

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