『フード・インク』の感想

 『フード・インク』を観た。ジャンルでいえばドキュメンタリー。特にアメリカの食産業を批判的に扱っている。アメリカのファストフードのヤバさは『スーパーサイズ・ミー』を見るとわかるが、こちらはどちらかと言うともう少し根源的な話。ファストフードの問題点、あるいはファストフードの周辺に位置する産業の目的などに焦点を当てている。『マクドナルド化する世界経済 闇の支配者と「食糧・水資源戦争」のカラクリ』を読むと理解が深まる。

 端的に言えば、これは筆者自身最近まで皮膚感覚での理解には及んでいなかったのだが、「食い物で金儲けをしよう」と本気で思っている人間がいる。「そんな事までして金儲けをしようとは、まさか思っていないだろうよ」というのは我々の「そうあって欲しい」という希望が投影されて現れる蜃気楼。「これは絶対に当選する」と思って宝くじを買うようなもので、妄信や思い込みの類に近く、現実を見ていない。

 少し前、と言っても10年とか前の話になるけども、ミートホープや料亭の産地偽装問題を覚えているだろうか?ああいった行為をもっとマクロな規模で行っているのがアメリカの食産業という事だ。
 ここでいちいち「アメリカの」という接頭辞を付けるのは別に「日本にとっては対岸の火事で、アメリカはひどいところだな!」という意味ではなく、上に挙げた作品がアメリカを言及しているから「アメリカの」という接頭辞を付けてるだけだ。
 「アメリカがダントツにヤバい」、という事は確かにあるかも知れないが、「日本やらイギリスやら他の国々はアメリカとは違って、全然そんな事はないだろうよ」という意味ではない。日本もあんまり安心できるような状況ではなかろう、というのが筆者の想像。

 あのモンサントについても言及されている。モンサントの悪徳商法については『タネはどうなる?!: 種子法廃止と種苗法適用で』などでも言及されている。
  仮にこれから何か商売を始めるとして、金を儲けるための手段を選ばないとしたらどのような方法があるだろうか?
 食べ物を売るというのはなかなか魅力的な選択肢に見えないだろうか?仙人か死人でもなければ、生きている以上は何かしら食べる物が必要になる。全人類が客だと考えて良い。これが漫画なんかだったら、多くても1000万人とかそこらだろう。規模が違う。英語に翻訳すればもう少し増えるだろうが。
 さらに都合の良い事に、人間の仕組みとして「おいしい」と感じるような食べ物にはある程度のきまりがある。「面白い漫画」のように、意見が分かれる事はない。それに、漫画を「読む」能力も求められない。言い方は悪いが、どんな馬鹿を相手にしても食べ物は売れる。
 ファストフードはこの「おいしいと感じる仕組み」仕組みを抑えている。そのため、ファストフードは世界のどこの誰が食べても、少なくとも吐きそうな程まずい、という事はない。それに腹は膨れる。野菜はいくら食べても・・・というのは誇張だが、ファストフードと比べれば腹が膨れにくい。
 こういったところは前述の『マクドナルド化する~』に詳しい。ただし健康についてはあまり考えられてない。健康であろうとなかろうと、売れれゃ良いのだ。食べて病気になろうが死のうが、売れれば良いのだ。とりあえず食べた瞬間に腹が膨れれば良い。少なくとも、売る側の論理ではこういう事になる。

 つまり、食べ物が「食品」ではなく、「商品」になりつつある、あるいは既になっている、というのが上記の作品の主張が一致する部分だ。この過程には、商品としての食品をより効率的に供給するために政府からの補助金が支払われる。政府が関与しているという事だ。
 これは企業のロビー活動、要は議員なりを買収して行われる。それで法律さえできれば、法と弁護士のコンビネーションで商売敵を訴えまくる。ここでの商売敵というのは、殆どが「健康的」な食品を作る人々だ。『フード・インク』にも「健康的」な食品を作る人々と、作ろうとする人々も登場する。彼/彼女らがどのような状況にあるのかは知っておいて損はなかろう。

 『フード・インク』で興味深いのは、この状況を変える事が出来る、という立場にある所だ。「おかしな事になってるから、もうちょっと考えて物買ったり、物食ったりしろ!」と主張している。
 つまり、企業Vs労働者の対決で労働者が有利な位置に立てるのは労働者として立ち回る場面ではなく、消費者として立ち回る場面だと主張している。簡単に言うとボイコット、変なもんは買うなという事。「何もしないと変わらないぞ」、と言うと同時に、「行動すれば変わるぞ」とも言っている。
 行動して変わった前例にタバコ業界を挙げている。現在の我々は、タバコ、特に紙巻の物を蛇蝎の如く嫌っているが、昔はそんな事は無く、薬の一種のような認識が一般的だった訳だ。でもだんだんと健康被害があるとか、そういった事が判明し、「タバコのパッケージにグロい写真を載せろ!」とか「パッケージの面積の何割かは注意書きをびっしり書いとけ」とか、そういう決まりが出来た。
 これは何事にも共通している。行動しても何も変わらないだろうから何もしない、というよりかは何かした方が良い。何かすれば何でも良いという訳でももちろん無く、ちゃんとやっている事の内容も吟味されるべきだ。良かれと思ってやっている事が本当に良い事なのか、善意から発した悪事ではないのか、よく考える必要はある。
 さらに、行動しても結局なんも変わらなかった、という事もあり得る。でもやらないと変わらない訳で、ここら辺が難しいところ。


 さて、この事例から先程の商品としての食品の発想を重ね合わせて、「Xという物が売れさえすれば、それが利用者の体に悪かろうが知った事では無い」という共通点を見つけられるだろう。

  『フード・インク』からはちょっと離れた話題になるが、この前デモが丁度あって食品関係との事だが、筆者はあまり評価してない。ネット民という身も蓋もない言い方があるが、ネット民の多くも同様の反応だったように思える。思えば、『スーパーサイズ・ミー』にも、菜食主義者が出て来てた。「その菜食主義者の隣で、ガバガバファストフード食べてるんだから、こりゃたまんねぇだろうなぁ」と思っていたのをふと思い出した。

 さてさて、人間が何を食べるか、あるいは食べてはいけないのか、というのは宗教的な価値観で規定されている事が多い。「羊は食べちゃダメー!でも豚はOK!」という場合もあれば、逆の場合もあるだろう。食べる物の指定に限らず、特定の時期にはそもそも何だろうが物食っちゃいけないだとか、修行の一環で断食するとか、そういうのもある。 
 じゃあ、「なんで食べちゃいけないの?」という疑問への答え方はこう。「そういう教義だから」
 よその宗教では食べちゃいけない食べ物は、うちの宗教では食べてもいいという事はある。どちらが正しいのか、という問いは成立しない。どちらも教義が有効である空間では正しいが、その外側では別の狭義がある。
 「外側はけしからん!こちらのルールに従え!」となった場合、つまりルールが支配する範囲を広げようとする場合には、殴り合いになる。我々の社会では、「殴り合いは良くないから、お互いがお互いに危害を加えない範囲で仲良くやって行きましょうね」という事になってる。殴り合いは何も生まない。
  件のデモがあまり共感を得ない(と筆者が思っている)理由は、普遍性がないからだ。普遍性というのは、教義の違う人々の間でも意見が一致するような事柄の事。「うちは牛は食べちゃいけない。おまえんトコは豚を食べちゃいけない。でも、お互いに毒があるもんは食べたくない」という場合の、毒を食わすなという部分は普遍性がある。ここで食べて良い物、食べて良くない物を決めるというのはお互いの立場を確認するだけで、何も積み重ねがない。
 『フード・インク』の「食べる物の安全」というような普遍性がないのだ。だから仲間内、価値観が近い人間の間でしか浸透せず、多くの支持は得られない。
 公約数として筆者が思い浮かぶのは、例えば食肉の生産方法。『フード・インク』を見て頂ければわかるが工業的な手法で、つまり自然の在り方に反した方法で大量生産していて、「絶対なんかヤバそう」と思える作り方をしている。うまくて安い、とは言うが、何故安いのか、というのも考え物だ。
 国内の食品を作る現場が『フード・インク』で見たようなヤバい世界なのであるのかはともかくそういった方法で作られた食物は買わない―ボイコット―だとか、そういう行動ならデモよりも効果が出るのではないだろうか?


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