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『夏に気後れする』

満たされない気持ちが言葉に変わるのだから、満たされるとそれを言葉にするのは気恥ずかしい。

人は二重の願望を持っている。
心を満たしたい願望と、満たされない心そのものを憂う、満たされないままでいたい願望と。

夏になる前は、生きとし生きるものにとって満たされない物ばかりだ。明日をも知れぬ焦りを覚え、暗い虛の中で外界の刺激をピタリと閉じた。命の灯火がメラメラ燃えださぬようエネルギーの漏洩を抑え、心に蓋をして冬眠するのだ。

僕はそのままでも一向に構わなかった。
冒険すると必ず痛みを伴うし。
ひんやりとした祠の中で、浅い眠りを貪るのも悪くはないし。

歳のせいかもしれない。もう半世紀近くも僕は生きている。時間の経過が異様なほど早く感じられる。僕が勝手に心を閉ざして浅い眠りを貪っている間に、外界は春を通り越し、夏になっていた。

僕は人生の後半に差し掛かり、これから夏を迎える度に同じことを思うはずだ。

そんな悩みを知らない少年のように清々しくなられても。

如何わしくて粘着質な、説明し難い虚無の中から生命やその物語は誕生するものだ。

あまりにも北海道の夏はあっけらかんと乾いているから、浮かぶはずの物語も、どことなく浅はかで、陳腐で、深みが足りない。

この夏は、何処へ行こう?
海へ行って、橋の下で、釣糸を垂らすのだろうか?
夏の清々しさに負けて、僕は一切のこだわりを失ってしまいそうだ。

夏になると、刑務所のように閉ざされた冬が恋しくなる。やがて半世紀の記憶が風化して満ち足りて、海に抱かれているのも悪くないと僕は考え始めるだろう。

けれど僕はもう若くはないから、やっぱり夏という季節が気恥ずかしい。

写真 小幡マキ 文 大崎航

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