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現代の奇病 原因は“愛情不足”か

物で飽和した現代に唯一足りないもがあったとすれば、それは“愛”である。

すぐに集中力が切れてしまい、人とのコミュニケーションも上手くできず、忘れ物や遅刻が直らず生活に支障をきたす大人のADHD
物の捉え方や感情の振り幅が大きく、時にはリストカットなどをして、自分の命さえも軽々しく扱ってしまう境界性パーソナリティ障害
学校に行きたくないと言い出し、不登校をする生徒が年々増え続け今や24万人以上が登校拒否をするといった、子供の鬱

このような症状が話題に上がるようになって久しいかと思います。私はてっきりネットで世界が繋がったことによって社会的なマイノリティーが顕在化したのかと思っていたのですが、にしても数が多すぎやしませんか。インフルエンザやコロナみたいな感染病じゃないんだから、流行するかの如く蔓延するのは、どう考えてもおかしい。

加えてもう一つの疑問があります。これらの症例は1950年以前の症例がほとんど見つからないのです。つまりこのような精神疾患は戦後以降、突如として現れた従来の精神医学の概念では捉えきれない不可解な現象であった。しかし、中でもADHDは先天的なものと言われるような遺伝関係の症状です。にもかかわらず、近現代以前に記録がないというのはおかしいと思いませんか。もっと昔から症例がないと辻褄が合わない。

そこでいろいろと調べた結果、ざっくりとですが、私の中で腑に落ちる問題の原因が見つかりました。この動画ではその原因の解説を目的とします。先に述べたような現代病はたった一つの根本的な原因とそれを取り巻く3つの社会情勢が関係していました。

結論から言うと、根本的な原因とは「愛着障害」。少し強い言葉なので、この記事では以降、「愛情不足」と言い換えます。

そして、その愛情不足を引き起こした3つの社会情勢とは「保育園への託児」「結果主義の価値観」「女性のキャリア進出」です。この三つは循環していて、3番目の「女性のキャリア進出」が1番目の「保育園への託児」につながっているので、ぜひ最後まで読んで理解を深めて下さい。

順に解説していきます。

皆さんにとって、愛情というのはどういう現象でしょうか。思いやりを持つこと、お世話すること、ものを与えること、捉え方はさまざまあると思いますが、もっとシンプルに「そばにいてあげること」だと私は考えます。そして、冒頭で紹介した現代病が見られるようになった1950年代以降の社会は、この「そばにいてあげること」が蔑ろにされていった社会だと言えるでしょう。

【保育園への託児】

とある観察結果があります。海外の医者が生後間もない子供の成長をビデオテープ記録するということをしました。観察対象の子どもは、一方は養護施設で育ったこどもたち、もう一方は刑務所の乳児院で育ったこどもたちで、それぞれを対照的に比較するというものです。

養護施設で育った子どもは衛生的にはなんの問題もない環境でしたが、施設の職員が育児をしました。一方刑務所の乳児院で育った子どもは、環境は刑務所の中なので劣悪なものです。しかしながら母親の手によって育てられました。

この環境の違いが子供にどう影響したか?結果は想像を絶するものでした。養護施設で育った子どもは皆、表情が絶望的に暗く無気力だったのです。記録のビデオを見た他のドクターが涙するほどひどい状態だったそうです。それに対して刑務所の乳児院で育った子どもは、すくすくと元気に育ちました。

ここからわかることは火を見るよりも明らかで、子供にとっても最も重要なことは「母親の手によって育てられること」なのです。これは科学的にも裏付けが為されていて、母親に育てられなかった子供には幸せホルモンであるオキシトシンを受け取るための受容体が現象していたそうです。

このような、母親が育てなかったことに起因する無気力の症例をホスピタリズム、日本語名を施設病と言います。

この観察結果は、日本で言うところの保育園への託児にも同じことが言えるかと思います。幼稚園生以降の年齢はいいとして、0歳から3歳までの生まれて間もない期間をも託児保育に任せるのは、施設病を起こす引き金に十分なりうるのではないでしょうか。

【結果主義の価値観】

資本主義を突き詰めると勝ち負けの世界、要するに「稼げればなんでもいい」というのが60〜80年代に蔓延していた昭和世代の価値観だと思います。その時代観でいうところの「勝つこと」「稼ぐこと」というのは即ち、大企業への就職を意味し、大企業への就職とは即ち、偏差値の高い大学を卒業することを意味するかと思います。その結果、家庭の教育方針は「立派なキャリアで高収入」という資本主義的な勝利を見据えた高学歴を絶対視するものとなり、学習塾や習い事、イケてる国への海外留学などを積極的にさせることがいわゆる「教育熱心」な家庭だということになりました。こうすることで現在の親世代は必死になって「立派な人」を作ろうとしていたのです。

しかしながら、この現象には影の側面がありました。よく映画やドラマなどで「君がいてくれるだけでいい」みたいなセリフがあるかと思いますが、本来子育てというものはそういうものなんですね。存在を無条件に受け止める。無償の愛とでも言いましょうか。こういった存在するだけで許される育児方針を、幸せホルモン優勢のオキシトシン型の愛情と呼ぶとすると、その真逆であるところの結果主義的な発想はドーパミン型の愛情に相当します。

いい結果を出したら愛されるが、結果が出なかったのなら愛されない。子供の視点からすると、親と子の関係性はこのように映るんですね。しかし、タチの悪いことに、親の視点に立つとドーパミン型の教育方針は、まるで親ライオンが小ライオンを崖から突き落とすことのような、教育には必要な“真の愛情”だと勘違いできてしまうのです。従って、親は役割を果たしていると思っているが、子どもからすれば、何処か欠けている感じがするという不和が生じる。

何がそう感じさせるかって、結果を出せないことに対する恐怖でコントロールされている気がするからです。テストで92点を取れば、92点取ったことを褒められるのではなく、残りの8点をなぜ取れなかったのかと責められる。成果をあげられないことに対する恐れが、本領を発揮できなくさせている。

現代の若者がまるで流行病かのように鬱やリストカットにうなされているのは、こういった物理的な距離の遠さが招いたホスピタリズムや心理的に突き放された感覚を味あわされた結果主義などの“抑圧”に対するストレスが全国各地で溢れ出るように暴発したのだと考えられます。そして、このような現代の奇病を作り出したのは、最後のトピックである女性の社会進出が招いたことなのではないかと私は考えます。

【女性の社会進出】

まず最初に言っておきたいのは、女性の社会進出について、私は賛成です。男女格差とか、もちろん無いに越したことはありませんし、女性は家庭に居るべきだというつもりもありません。むしろ、働くことにリソースを先過ぎたのではないかという主張です。

会社には育休制度というものがあって、長くて3年間くらい手当をもらいながら育児のための休暇を取れるというのが基本的なものだと思います。しかし、これにはある問題点がありました。「3年も休んだら、まともに復帰できない」という問題です。つまりは、育休という制度がありながら実質的には「辞職して子育て」か、「子供を預けて働く」かの2択に近い状態だと言えます。

そしてこの時、多くの女性は「自分のキャリアに穴を開けたくない」という気持ちになったのではないでしょうか。もしくは「今の職を辞めて、子育てが済んでから再度就職する」というリスクに対して酷く怯えたのではないでしょうか。

となると、仕事、家事、育児を1日の中で並行してこなさなければならない。それは多くの方にとって、シンプルに無理だったと思うんですね。普通に考えて何かしら引き算しなければならない。そこで世の女性たちは何を犠牲にしてきたか?

少しでも自分の時間が欲しい、せめて一息つかせて欲しい、そういった自分の自由と引き換えに喜んで差し出したのが“子供への愛情”だったのです。「そばにいてあげる」ことを真っ先に捨てた。生まれて間もない頃から保育園に預け、夜遅くまで塾に通わせ、とにかく言うことを聞かせ、結果を求めた。そして言うのです。

「全てあなたの為だ」と。

冒頭で、第二次世界大戦以前の記録には子供の鬱とかリストカットする人とか、忘れ物で生活に支障をきたす大人、なんてほとんど無い、といいましたが、現代に見られる精神疾患の原因が愛情不足によるストレスだと分かれば察しがつくのではないでしょうか。

第一に、女性が基本的に家庭にいたので、そう言ったストレスがそもそもほとんどなかったこと。第二に、生まれてまもなく母親と離れた子供がいたとすれば、その子供の命は長くはなかったことが考えられます。

そう考えると、戦後からしばらく経った後、徐々に右肩上がりに増えていった新たな現代病として知られたことにも納得がいくのではないでしょうか。

また、ADHDは先天的なもの、遺伝が原因の発達障害だと考えられていますが、その場合、12歳以降、歳を重ねるににつれて徐々に症状が緩和していくとされています。稀に中年期以降も症状が続く場合がありますが、それは全体の1割程です。

一方、大人のADHDというのは、それとはまた別物のであり、鬱や境界性パーソナリティ障害などと同様に、幼少期の愛情不足によるストレスによって後天的に発現する物だと考えられています。つまり、大人のADHDは発達障害ではなかったのです。結果として、こどものADHDと比べて、言語力や記憶力の神経障害の度合いは遥かに軽い。しかし、生きづらさという点においては深刻なものがある。おそらく社会人で悩んでいる多くの方がこのタイプのADHDかと思われます。

このように現代の奇病と呼ばれる現象は、ほとんどの場合、養育環境の影響で後天的に生み出されたものと言って、まず間違い無いと思います。各自過去を振り返れば、何かしら思い当たる節もあるのではないでしょうか。とは言っても、誰かを責めたところで世界は変わりませんし、どれだけ口先で自己肯定感を持てと言ってもそれは栄養失調で育った人に背を伸ばせと言うようなものでしょう。この記事では社会現象の解説のみにとどめて、当事者への余計な助言は控えておこうかと思います。

ただ覚えておいて欲しいのは、大人が家庭を持つ上で経済力だ、地位だ、学力だって、頭だけで色々考えて悩んだりしていますが、子供にとって一番重要な「そばにいてあげること」が抜け落ちていたのなら、それは親の勤めを果たしたとは言い難いと言うことです。

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