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短編小説『風』(2900字)


私は幼いころから泳ぐことが苦手だった。
生まれ故郷の高知では、家のすぐそばに川が流れ
子供は皆、水遊びをして育つというのに
私には川に対する恐怖心があったのか、それとも何か別の理由からか、
川に入った記憶が一度もない。

その反動なのだろうか
いつしか、プールに対する憧れに似た思いが心の中に芽生えていたように思う。
高校生になり、
とある公園の中のプールが、夏休みの間のアルバイトを募集している事を知ると、ほぼ反射的に応募し、採用された。

泳げない私に与えられたのは場内放送の仕事だった。
決まった時間に決められた「お知らせ」を読み上げる、極めて簡単な仕事であり、退屈だからと他の学生たちには人気がなかった。しかし私は――

決して退屈することはなかった。
そこには、生涯忘れられぬほどのトキメキがあったのだから。








ゆうさんがやってくる。
25メートルプールのフェンスの向こう側、背筋を伸ばし、膝を高く上げる、独特な歩き方で。
まっすぐこちらへ向かってくる。

 9時5分過ぎ。開園直後の場内には私がセットしたラジオ体操のテープが流れている。ゆうさんは今日も遅刻だ。
 プールサイドのライフガードたちがゆうさんを見ている。
私は放送室へ戻り、ゆうさんがやってくるのを待った。

「おはよう」
さわやかなソプラノの声とともにゆうさんが入ってきた。遅刻したっていうのにまったく気にしていない。
「ラジオ体操の終わりに雑音を流したね」ちょっと怖い目で言う。「君はたしか、今年2年目だよね」
「すみませんでした。これから気をつけます」私は頭を下げた。テープ交換の際、誤って雑音が入ってしまったのだ。

ゆうさんは今日もSUPEEDOのロゴが入った紺色の水着の上に、ユニフォームの黄色いTシャツを重ねている。緊急時にはいつでもプールに飛び込み、溺れた人を救助できるように。

「ゆうさん、昨日は遅くまで泳いだんですか?」
昨日、プールが閉まってから25メートルプールでゆうさんが泳いでいるのを見た。帰りがけ、フェンスの向こうからターンを20回まで見届けて、バス停に走ったのだけれど。

「そんなでもないよ」
ゆうさんは髪を結い直しながら言う。
おでこの周りのふわふわとした産毛が素敵だ。顔の両側の髪を引っ張ると、ふっくらとした一重まぶたが吊りあがりキリリとした顔になる。

ゆうさんは大学の2年生だ。高校1年の夏からずっと連続してこのプールでアルバイトをしていて、浪人中を含め6シーズンもここに通っているらしい。

ここは県営プールで、「未来創造社」という民間の会社が運営している。そこの社長が豊田さんといい、ゆうさんの叔父さんにあたる人だった。豊田さんは競泳界では名前を知られた人なのだそうで、現役を退いた後は水難救助の指導者としても活躍し、ちょっとしたカリスマらしかった。ゆうさんが競泳を始めたのも、豊田さんの影響を受けての事らしい。

ここの仕事はプールが営業している間の短期アルバイトで、高校生が私を含めて15人くらい、あとは殆どが大学生で、そのほかにボランティアの人たちもいて、総勢45人くらいだ。

私はまったく泳げない。というよりも、生れてから一度も水の中に入ったことがない。だから、水泳部の部員や、プール好きの学生たちが集まったこの場所で、私は少し(というかまったく)珍しい存在だったのかもしれない。



           *


ゆうさんと初めて会ったのは、一年目のアルバイトの、最初の日だった。
放送室で初めて言葉を交わした。

「依田摩子です。よろしくお願いします」私はやや緊張して挨拶をした。
「ゆうです。よろしく」ゆうさんは右手を差しだしながら言った。私は躊躇いがちに右手を差し出した。――ゆうっていうのは苗字なのかな?――と思いながら。SUPEEDOの水着の下から出ているすらっとした脚が眩しい。「カモシカのような脚」という表現があるけれど、それはこんな風に美しい脚のことなのだろうか。

「背が高いですね」
 私がゆうさんの肩のあたりを見ながら言うと、
「166センチだよ」ゆうさんが答えた。
ゆうさんはちょっと撫で肩で、ほっそりとした首の上に卵型の日本人形の様な顔が乗っている。
ゆうさんは私のジーンズ地の短パンをチラッと見て、「ガードじゃないよね」と言った。
「はい。私は放送係です。全然泳げないので……」
ガードというのはプールの周りを歩きながら、中を監視する仕事のことだ。
「そうか、泳げないんだね」ゆうさんは頷き、「だったらプールに落っこちないようにしないとね」私の顔の真正面にきりっとした顔を近づけてそう言った。

途端に胸がドキドキと大きく高鳴る。
ゆうさんの瞳が目の前にあった。一重まぶたの中の瞳は青みがかった緑色で、中心が水晶のようにキラキラと輝いている。見つめれば、そのまま吸い込まれてしまいそうだった。
私はこの瞬間を忘れない。
男性とか女性とか、そんな枠を超えて、ゆうさんという人の虜になった。
恋をした、と言ってもいいかもしれない。
憧れ(アコガレ)が頭の中でグルグルと回っていた。

ぼーっとしていると、
「依田さんは…高校生?」ゆうさんが顔を覗き込んでくる。
「はい。一年生です」
「ふふ。すると、このあいだまで中学生だね」ゆうさんは楽しそうに言った。笑うと、右側の糸切り歯がニョキッと口からはみ出す。鬼の牙みたいでおかしい。私は下唇を噛んで笑いをこらえた。
「ん、ん、ん」とゆうさんは咳払いをして口をもぞもぞさせ、牙を戻した。
 すると、そのとき、放送室の窓ガラスが何かの合図のようにカタカタと音をたて、小さく揺れた。まるで笑っているかの様に。

――風?――
窓の外を見ると、放送室の裏に生い茂った背の高い樹木が、ダンスを踊るように枝や葉を揺らせている。
私は周りの様子を見るため、放送室を出た。
すぐ前には25メートルプールがある。
真夏の太陽がキラキラと水面を照らしていた。
開園前のプールは穏やかな顔で子供たちの歓声を待ち、風はまったく吹いていない。
――放送室の周りにだけ風が吹いたのだろうか――
私はサンダルを鳴らし、放送室に戻った。
風はすでにやみ、ゆうさんはもうそこにいない。
50メートルプールへ向かう一本道を、すたすたと歩いていた。
私は放送室の窓から、ゆうさんのポニーテールの尻尾がゆらゆらと、右へ左へと揺れるのを見ていた。

数日後、ゆうさんが休みの日、ひととき強い風の吹くことがあった。お客さんは殆どプールサイドに上がっていたが、念のためにと注意を促す放送をした。その時、最古参のアルバイトである倉木さんが私の後ろで呟いた。

「誰か、ゆうさんを怒らせたかな?」
ドキッとして振り向くと、倉木さんは慌てて手を振った。
「冗談、冗談」と。
しかし、それが全く冗談ではないことを私は知っている。

掃除をサボった学生アルバイトが次の勤務日に風に煽られて転んだこと、シルバーボランティアの方に乱暴な態度で接した女子学生が、風の中でクルクルと回ってしまったこと――
ゆうさんを悲しませることは、決してしてはならないのだということ――。

あれから永い年月が流れた。
ゆうさんは今、何処にいるのか?
10数年前には英国で暮らしていると、風の便りに聞いたけれど。


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