見出し画像

sushi 20 「かにかま搾菜レタス炒飯」

明け方、いつもより早く目が覚めてしまってお腹が空いている。
昨日は一日忙しなくて、早めのランチにコメダ珈琲のモーニングのミニサラダ付きを食べたきりだった。夜は夜で仕事終わりに和歌山の本屋プラグさんがやっているインディーズラジオの収録があって、終了すると23時すぎ。こういう日の夜はもう全く食べないか、一杯程度お酒を少し飲んで寝るかする。昨晩は前者で、帰ったら顔を洗って1時頃にはベッドに入った。けれど大して眠れず寝返りだけを打ち続けた結果、諦めて朝の4時に起きて、お腹を満たすために冷蔵庫の余り物で何か作ることにした。

我が家の冷蔵庫は、調味料と酒と漬物、あと卵くらいしか常備していない。パートナーも私も働いていることもあって付き合いの外食も多く、家で食べるにしても簡単なものだけ作って惣菜を買い足すことが多かった。
今日の冷蔵庫の中を見渡すと、卵と搾菜、かにかま、お茶碗一杯分のご飯(冷凍)がある。炒飯が作れそうだった。

ボウルに卵を割り入れ、菜箸で軽く混ぜる。黄身と白身がざっくり混ざってきたところに解凍したまだ少し冷たいご飯を入れ、卵と先に絡める。実家で母がよく作ってくれたのは卵を先にフライパンで炒めて炒飯の具材にするものだったけれど、美味しんぼか何かで知って以来、自分で作る時は何となく先に混ぜる炒飯を作っていた。
卵とお米がある程度絡んだところにかにかまを手で割いて入れ、熱したフライパンでサラダ油を温める。本当はごま油が良かったけどちょうど切らしていた。
温められたサラダ油がフライパンの上でスルスル動くようになった頃合いで、混ぜておいたかにかま入り卵ご飯に搾菜を加えて、それを一気にフライパンへ投下する。そこでなんとなく具材が寂しい気がして野菜室を漁ると、萎れかけのレタスがあったので3枚ほど洗って荒々しくちぎってフライパンに入れた。「萎れかけのレタス」って言葉が「壊れかけのラジオ」みたいだと思った。

レタスを入れるのに少し手間取ったせいか、卵かけご飯が油で熱されかたまりになってしまい、とりあえず適当に炒め続けた。ボロボロ、ボロボロ、と菜箸で円を描く中で塊は崩れていって、ぱらぱらの炒飯風にまとまっていく。こんな風に雑に作っても、何となくそれらしくなるから炒飯はすごいし偉い。特別な隠し味を入れるでもなく、塩胡椒と少しの醤油で味を整えて「かにかま搾菜レタス炒飯」は完成した。

何で眠れなかったのか。
心が元気な日は「今日も忙しかったけどやり切ったな」とクタクタになった身体を休めるために眠れるけれど、生憎昨日は心が参ってしまってる日だった。
昼間、出先で車が運転できなくなった。全身から力が抜けてしまってアクセルが踏めなくなった。というより、このまま運転し続けていたら事故をする可能性が高かったので、自主的にローソンの駐車場に避難した。確かに今日、私の心には不安なことがあって一日中それが気がかりだったけれど、頭の中では「今回は私だけのせいではないし、周りからも別に責められてはいない。必要以上に自分を追い詰めなくても大丈夫」と分かってはいるものの、どうやら身体の方が責任感や重圧から逃れられずに反応してしまっているみたいだった。夜のラジオ収録中は楽しかったけれど、帰り道にはやはり脱力感がすごくて、何とか家に辿り着けたという感じだった。

ベッドに入った後、何度寝返りを打ってみても、神経の切り替えがうまくいっていないのか眠れなかった。義務のように目を瞑り続けても、脳は冴え切っていて全く眠ることができない。ぐるぐるぐるぐる、色々なことを考えてしまう。考えないようにすると、さらに考えてしまう。目を瞑ってみても、目蓋の裏で本日のハイライトが上映されてしまって、結局また嫌な現状を見返すハメになる。
もうそういう日は、仕方ない。眠れないことにすら責任感を感じそうになる前に、諦めることが肝心だった。

朝の5時すぎ、明るくなり出した外を見ながら、かにかま搾菜レタス炒飯を食べた。味はあんまりしなかった。味付けが薄かったのか、寝不足やストレスで味覚が鈍っているのか。分からないけれど、最後まで食べることができた。小さく満足感を得る。
料理は別に得意ではないけれど、たまにこうやって余り食材から適当なご飯を作るのが好きだった。レシピも何もなく、そもそも自分の栄養補給用なので、無理して美味しくしようと気張る必要もない。でも、余り物をうまく組み合わせられると達成感があるし、たまにびっくりするくらい美味しくなることもあるので料理って面白い。ただし、そういうメニューは総じて後日再現するのが難しいことが多い。

一般的な望ましい人間の生活サイクルは、朝早く起きて昼間は勤勉的に動き、夜は早めにご飯を食べてお風呂に入ってから早めに就寝する、とかそういうイメージがある。でも、そのサイクルと違う日があったり、そもそも違う生活を営んでいたとしても、実は全く問題ない。仕事の場に出た時、友達と会う時、買い物に行く時。そういう瞬間にうまく取り繕えていれば、それ以外の時間をどう破戒的に過ごしていたとしても他人からは知ったこっちゃない。
余り物で作る料理も同じだと思う。不味くなろうが、焦げようが、そこに他人への配慮は一切必要ない。あくまで自分のためだけに、たった1人分の責任だけで成り立てるもの。どことなく一人前の大人になった気がして、気持ちが少し楽になった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?