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怒りを持たない酔っ払いはとにかく大丈夫

パートナーとお気に入りのイタリアンに行った。
いつものようにサラダとチーズを食べ始めたところで、ドアが開いた。

「私は白ワインが好きです。」

低めのよく通る声に思わず振り返ると、黒いコートに火野正平が被ってるみたいなニット帽、もみあげから口までつながる立派なヒゲの男性が、若干笑みを浮かべながら開けたドアの前に立っていた。

一瞬で「何だかこれはまずいかもしれない」と私のセンサーが反応した。

「開いているお席へどうぞ。」と声かけがあったが、ここのお店のお姉さんは結構声が小さい。すかさず男は「私はまだ!案内されていません!」と、先ほどより大きい声で宣言した。

この時点で、今日はもうこの一皿を食べたら帰ろうと思い、パートナーに目配せした。

男は「ここ、いいお店だよねぇ!?なんかすごいところなんじゃない!?」となぜか大興奮していたが、お店のお姉さんは普段からあっさりした対応をする方で、この時も動揺せずに対応していた。

男は大声でぶつぶつ言いながらカウンター席に着き、ビールを注文した。(白ワインちゃうんかい!)そしてスマホを取り出しLINE通話を始めた。

ジャズの流れる静かなお店で通話か、TPOぶっ壊れとるなと思いながら、若干の緊張感とともに、残り少ないチーズを最大限に楽しむよう努めた。

男の通話相手はなんと小さな子供だった。おそらく彼の息子で、留守の間の様子を知りたかったのだろう、今日は何してたの?などと話しており、なんてことない日常の一コマという感じがした。

大丈夫かもしれない。

なんとなくそう感じて、次の一皿を注文することにした。
我々が次の一皿を食べている間中、男は彼の息子と話をしていたのだが、私はあることに気づいた。自分の息子のことを全く子供扱いしていなかったのだ。声の感じから未就学児ぐらいではないかと思ったが、男はいたって普通に大人に話すように話していた。
そして、通話が終了すると、男は急に静かになった。

お店の控えめに流れるジャズが聞こえるようになった。

なんと言い表したらいいか分からない、だけど何か違和感があるなと思いながら、その男と同じ空間を共有していた。そして、この次に起こることで私の違和感は昇華され、男は完全体となった。



「にゃんっっっっっ!!!」


え?


「にゃにゃんっっっっっ!!!」



はっきりと聞こえた。間違いなく、このヒゲニット帽の男が発した奇声だった。
これには我慢ができなかった。声を殺して笑っていたが、笑いすぎて息が吸えなかった。もう肺に空気が入っていないのに、体が勝手にまだ空気を出そうとしていて本当に苦しかった。
この数十分の緊張が一気に解かれた開放感で体の力が一気に抜けた。

こいつは絶対大丈夫だ。

根拠は説明できないが、とにかく大丈夫だと思い、パスタやデザートまでしっかり楽しむことにした。

我々がパスタを食べていると、にゃにゃんは帰ろうと席を立った。
そしてあろうことか、我々に話しかけてきた。

「ヒゲ、かっこいいね。」

私のパートナーは特徴的な長いあごヒゲを持っているのだが、それを褒めてきたのだ。「ありがとうございます!」と答えつつ、関羽はどこから来たのか、何軒目なのかなどと質問をしていた。
それに乗じて私も話しかけてみた。素敵なカゴバッグを持っていたので、「カゴバッグかわいいですね」と言うと、浜松で買ったが中国製であるなどと教えてくれた。
そしておもむろに、そのカゴバッグから何かが入っている白いビニール袋を取り出し、私の目の前に差し出した。

「ぅん!」

「ぅうんんん!」

カンタがサツキに黒い雨傘を差し出すところを思い出してほしい。そしてカンタを、黒いロングコートで火野正平が被ってるニット帽でモミアゲヒゲの、妙に瞳に輝きがある男に変えて想像してもらいたい。

何をどうしたいのか全く分からなかったので、私は「なんですかそれは?」と質問した。すると、低く落ち着きのある声で、ありえないワードが返ってきた。



「キ○タマ……」




えっ?




あの状況で、落ち着いた低い声ではっきりとキ◯タマと聞くとは思わなかった。あまりの発音の良さにNHKのお昼のニュースのアナウンサーかと思った。

「え?何が入ってるって?」と聞き返すと、にゃにゃんは一気にその話題への興味を失い、自分のコートがお買い得であったことを話し始めた。

その後、我々にオススメのお店を聞き、にゃにゃんはお会計を済ませたが、済ませたことを忘れてもう一度払おうとしながら、店を(半ば強制ありがとうございましたで)後にした。おそらくオススメした店にはたどり着いていないだろう。

店主は「お騒がせしてすみません」と申し訳なさそうにしていたが、「大丈夫ですよ」とだけ答えデザートまで平らげた。


歩いて帰りながら、いろいろと考えた。


なんで絶対大丈夫だと思ったんだろう?


既視感があったような感じがした。「あ!これ進研ゼミでやったところだ!」と言うなら今だろう。懐かしささえあった。


会話のキャッチボールはできているので、側から見るとなんてことない光景に見えるのだが、投げてるボールが支離滅裂で、ぞっとするような異常さがあるのだ。

どれくらい支離滅裂かというと、ボーリング場で投げていたのがピンポン球だったみたいなレベルではなく、自分のターンで「バウルの音楽を知っていますか?インド音楽の中では……」と演奏を始めるようなレベルなのだ。
全然意味の分からんことをやっているのに、なぜか自分の順番が来るまでそれを待つことはできる、みたいな。存在自体が混沌を感じさせるのに、たまに秩序ある振る舞いをするので、こちらは混乱してしまうのだ。

そういう人がいることを、そのようなケースがあることを、なぜ私は知っているのか?




あ、おとうさんか。




にゃにゃんの酔い方は、父に似ていた。

このタイプの酔っ払いは、普通に会話をしていながら時折顔を出す狂気に恐怖こそ感じるが、物理的な害はないのだ。怒鳴ったり物を投げたり、道でゲロを吐くような酔っ払いの方がよっぽど怖い。

そういうわけで、特にオチはないが、このタイプの酔っ払いに出会ったらスルーするか普通に対応してもらえたらと思う。大丈夫。

おわり

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