自称読書家の、か細き一徹。
今年は鬼のように本を読んでいる。といっても自分史の中では、という限定された前提のもとでの話だから、人さまと比較しない内向的な絶対値は、井戸の中のピョン吉が大海に出て山ほど出遭う多読家と比べれば、てんで薄っぺらい。吹けば飛ぶような軽薄至極、人波を右に左にかき分けかき分け声高に自慢しつつ大手を振って行進できるようなものではない。
だから自分の内側でこっそり叫ぶ。
今年は鬼のように本を本でいるんだぞ、と。
読むことがそんなに偉いかと問われれば、少なくとも読む前は、たくさん読む人は偉いと思って疑わなかった。ところが読み飛ばすように1冊、2冊と読みあげていくと、ちっとも自分が偉くなった気がしない。他人ほど偉くなる速度が早くないことが関係していることは承知している。だがそれも、場数を踏めばいずれ千里先のゴールにたどり着く、と思っている。このようにして読み進めて来たのだけれど、これまで読書を積み上げて来たのに、読み終えても読み終えても、読み始める前となにもちっとも変わらない。一歩さえ踏み出した気がしない。偉さが増した実感は当然なく、ただ読書時間が増えただけであった。
これまでの読書を検証したら、ひと月に1.5冊強のペースだった。これで多読家の足元にもおよばないことがご理解いただけただろう。
では、どのようにして読み進めるか、である。
書店でのまとめ買いは書籍を手元に置くことで積ん読本を増やすだけだから読破の目標を定めにくいが、図書館本は一定期日以内に返却せねばペナルティを課せられるからのんびり悠長に読んではいられない。これだと自分を追い立てるのに絶大な効果がある。なぜならことペナルティに敏感な性質の持ち主だからだ。ペナルティが存在すること自体で神経が毛羽立つほどなんだもの、『返さなかったら次は貸してあげない』の交換条件が、僕を恐怖のどん底に陥れる。。
しかも過度の心配性が脅迫概念に追い打ちをかけてくるからたまらない。怪我したわけでもないのに、傷口に塩を塗り込まれた痛みが未来から蘇ってくるのだ。
もしルールを破ってしまったら、不可抗力でもイエローカードを出されたら、避けようのない隕石に直撃されて病院送りになったなら。
あまたの負の可能性が渚のシンドバッドみたいに、ここかと思えばまたまたあちら、次にはあそこから、と悪い事態の可能性を連鎖させてしまうのだ。
そもそも、スピード違反で青切符を切られたことが諸悪の元凶だった。あれがペナルティの恐怖を完膚なきまでに僕に植え付けていったのだ。
にっくきスピード違反。天は人を憎まず、罪を憎むものなのだ。
それでも、そもそも論がむくむくと湧き上がり、思考のこうべを下げてくる。
そもそも、いったい誰なんだ? スピード超過で反則金を納付させようなんてナイスなアイデアを思いついたやつは。
悪いのは立法を提起した者、そして承諾した面々だ。
あれ以来、ペナルティに対峙する神経は廊下に立たされる劣等生の如く屹立し、僕は蛇に睨まらたカエルになった。
小心な心臓に人生の厳しさという重荷を背負わせることで、人は(少なくとも僕は)萎縮し、健気にも従ってしまう。
これ以上悪い子になるのはごめんだったから、悪い子にならぬよう期限内に読み終えようと努力する。読破前に返却日を迎えることは間に合わない宿題と同じだから、必ずお仕置きをする者が追ってくる。だから期限内に読み終えてもいなければならなかった。
ペナルティにはご遠慮いただくか、ご辞退してほしいのだ。だから、読む。読み終える。返却日に先端の鋭利な針を設置し、風船を刻一刻とカウントダウンで近づけていく。
返却できれば風船は破裂の災難を免れる。
ふう。
今年に入ってから、鬼のように本を読んでいる。問題はもうひとつあって、どれだけ長きにわたり鬼のように読み進められるかなのだ。
年が変わってから、今年はまだ1.5か月しか経っていない。今年いっぱい走り続けるためには、あと10.5か月の間、鬼のように読み進めていかなければならない。
小心者の小心の内側に飽き性を抱え込んでる我が身を思えば、道のりは試練に見えてくる。
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