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ハートランドの遙かなる日々 第20章 ウーリの青空裁判


 アルトドルフの教会前の菩提樹の広場では、久しく無かった青空裁判が行われようとしていた。

 広場には多くの人々が詰めかけ、後ろからも見えるように木箱で壇が組まれ、その上に粗末ながら木箱で裁判席が作られている。
 その群衆の最前列にはマリウスがいて、その後にはカリーナの姿もあった。
 被告はその正面に一つ置いた木箱の上の椅子に座らされ、ロープで縛られていた。狭いので少しでも暴れると木箱から落ちそうだ。被告は、先日の牛を死に追いやった蓬髪の大男だ。その大きな目はひどく憔悴している。
 その正面の判事席にはアッティングハウゼンとブルクハルト、ヴァルター、そして白髪の執行官、ヨセフ・ルーデンツがいた。執行官は裁判官と警察官、軍事を兼ねたウェイペルと呼ばれる廷吏であり、役人でもあるので、アメリカでの保安官や、日本で言う奉行にもほぼ近い。
 原告の席も壇の横に設けられていて、エンゲルベルクからはウルリッヒ修道院長とクレア女子修道院長、そしてイサベラが出席していた。
 被告席の隣には代理人としてまだ若いヴェルナー・フォン・シュヴァインスベルクが立っていた。シュヴァインスベルクはアッティングハウゼンの息子で、アッティングハウゼンの城郭の近くに四角い城館を建て、その名で呼ばれている。
 いつもと少し違う事には被告席の真後ろには特別な傍聴席が設けられ、そこに代官のゲスレルの姿があった。これからこうした集会は傍聴するとの事だった。
 アッティングハウゼンが手元にある木槌で木片を叩いて言った。

「では、青空裁判を始める。訴状によると、エンゲルベルク牧場の牛祭りで骨折をした牛を、国境の牛小屋で養生させていた所、被告によって勝手に手術をされ、その手違いにより死に至らしめられた。そして解体され、その肉の一部を盗まれた。手術に至る経緯も捕まえた時に聞いたのみで事実が疑わしいので調査を望むと。原告の訴えはそれに相違ないか?」

 クレア修道院長はイサベラと頷き合ってから言った。

「はい。その通りです」

 アッティングハウゼンは続けた。

「うむ。では、執行官のルーデンツ。調査の結果を発表してくれ」

 ルーデンツは立ち上がって言った。

「調書によると、被告マグナ・ボーデンは、国境に建てられた小屋の中にいた牛が骨折して流血しているのを発見し、助けようとして手術をし、さらに暴れたために悪化して死に至らしめた。そしてその後、血抜きをした後、背中と腿の肉を切り取って持ち帰ったと。証言はそれに相違ないな?」

 シュヴァインスベルクが代理人として言った。

「異議あり。死に至らしめたというのは少し語弊があります。牛の怪我は放っておいても死んでしまうくらいのひどいものでした。彼は治療行為をしたのです。よって無罪を主張します」

 アッティングハウゼンが言った。

「しかし、それによって悪化して死んだという事であったようだが」
「裂けた傷を縫うつもりだったようです。意図に反して上手くいかなかったようですが、それは事故的な要因と言えます」

 牛飼いのマグナは顔を上げて言った。

「牛が暴れたせいです。それはオレのせいじゃない。言うならば牛のせいです」
「被告人は勝手に発言せぬように。だが、確かに牛のせいでは裁けない。どうだ、ブルクハルト?」

 アッティングハウゼンは早々にブルクハルトに振ったので、そこからはブルクハルトが話を継いだ。

「その通りならば不幸な事故ではあるな。だが気になる点が二、三ある。あの巨大な牛を、普通一人では手術しようという気にはとてもならないだろう。あの巨体だ。数人で取り押さえなければ暴れて無理なことは自明ではないか? 本当に一人だったのか?」

 マグナはひどく狼狽えた。すぐ頷けるはずの答えが出て来なかった。

「どうだ? 一人か? 手術で両手が塞がるんだ。私もやった事があるが、少なくとも前後で二人は牛を抑えないと無理な事だろう。それでもあの巨牛だと押さえられまい」

 牛にも詳しいブルクハルトがだめ押しをすると、マグナは観念したように言った。

「通りがかりの人です。二人に手伝って貰ったんです」
「ほう、それは誰だね」
「名前は、知らない……」

 シュヴァインスベルクが言った。

「重要な証人です。それが判れば身の潔白が証明出来るんですが?」
「通り掛かりだったんで。本当に知らないんで」

 何か隠していると踏んだブルクハルトは話を進める事にした。

「では、もう一つ。牛から切り取られた肉だが、かなり大きく取られている。回収された分とは到底見合わないそうじゃないか。他はどこへ行ったんだ?」

 マグナは観衆の中を見て、マリウスを差して言った。

「そこにいる子供に渡したのが全部だ」

 いきなり注目を浴びたマリウスは、手で丸を作って、「これくらいだったよ」と言った。
 ベレー帽子くらいの大きさだろうか。
 クレアが補足するように言った。

「それを傷と比べてみると、四分の一にも満たなかったんです」

 それを聞いてから、ブルクハルトは言った。

「そうですか。では、その他の四分の三はどこへやったのか、答えて貰おう」
「それ以外は……周囲にいた人にあげたんでさ。そもそもあそこで死んだ牛は解体して振る舞うのが習わしですから」
「小屋の場所はラウフェンブルク領に入った所だったはずだ。ウーリの外だからその慣習からは外れるぞ」
「あの辺はまだウーリに入っていると言ってたんで。なら慣習通りでしょう?」
「誰がそう言った?」

 マグナは一瞬そこで口をつぐんだ。

「通りがかりの人で……」
「それもか。それは、さっき言ったその通りがかりの二人と同一人物か?」
「いや……」
「そうなると、周囲に人がいっぱいいたと? 確か発見時は朝八時過ぎ、時間は早朝だったはずだ。あんな湖の突端の僻地にそんなに人はいないだろう」
「それを聞いたのはその前の日だったんで……」
「もしかすると、手伝った二人にも肉を分けたという事か?」
「へえ……」
「それ以外にも人はいたのか?」
「あまり覚えてないですが、何人かは……」
「正確な所、肉を配ったのは何人だ。覚えてないはずはないぞ」
「三人……です」
「それでだいたい四分の一か……分量は合わないでもない。しかし、これはまるで共犯の分け前のようじゃないか? しかも、手術した被告が一番少ない事になる。不自然だ」

 マグナの顔は真っ青になった。
 ルーデンツは言った。

「今の今までこんな重大な証人を隠して来た事は、確かに疑わしいと言わざるを得ない」
「共犯が疑われますな」

 そうブルクハルトも頷いている。

「紐が……」

 それはイサベラの声だった。
 アッティングハウゼンが「うん?」と首を傾げた。

「私に発言をお許し戴けますか?」
「ええ、どうぞ。確かシスターは現場にいた」
「骨折した足を固定していた紐が、ナイフで切られていたんです。それが切れていなければ牛の足は地面に着かないはずでした。骨折の悪化も無かったはずなんです。後で紐をよく見ると、片方だけが一度濡れて半乾きだったので、かなり前に故意に切ったんです」

 ブルクハルトが頷いた。

「シスター、それは重要な証言だ。被告人、どうだ故意に紐を切ったのか?」

 マグナは真っ青な顔のまま言った。

「紐は切ってません」

 イサベラは涙を滲ませつつ言った。

「この方に捕縛の前にそれを聞くと、暴れて解けたんだろうと言ったんです。でも紐には切った跡があった。それが時間が相当経ってるなんて、おかしいじゃないですか!」

 マグナはイサベラに恐ろしく大きな目を向けた。イサベラは負けそうになりながらも睨み返した。
 それを見たマリウスはカリーナにしがみついて叫んだ。

「怖いよ!」

 マグナはそのマリウスの声に自嘲するように鼻で笑って視線を落とした。
 そんな我が子を見てからブルクハルトが言った。

「牛を故意に骨折させた疑惑があるという事だな。だが、牛を怪我させても罪にはならない……か」

 マグナはシュヴァインスベルクに「言ってくれよ」としきりに何か言った。
 シュヴァインスベルクが後を続けて言った。

「被告は牛のいた小屋はウーリ側にあったと、ならば慣習に沿って肉を配っただけで無罪だと主張しています。私が実際行って見て来た所、国境の立て札のすぐ向こう、つまりウーリより向こう側に小屋が建っていました。ですが、立て札は折れていて移動したような跡があり、正確ではないようなのです」

 ブルクハルトは言った。

「それは、明確に証明出来る人はいないのか?」

 アッティングハウゼンが「儂なら見れば判るぞ」と言った。
 シュヴァインスベルクが言った。

「では、是非一度見て、実地検証を願いたいです」
「裁判はどうする?」
「一時休廷で延期しては?」

 アッティングハウゼンは手元の木槌を鳴らして言った。

「では、今日はこれで休廷とする! 明日また同じ時間から再会しよう」

 広場に集まった人々は解散し、マグナは数人で椅子から降ろされ、また収容所に連れて行かれた。
 クレア修道院長とイサベラも壇上から降りたが、イサベラは少し気が気でなかった。国境が動かされている事が、ここで注目されるとは思っていなかったからだ。
 そこで、マリウスのところへと早足で歩いて行った。

「弟さん!」
「なあに? 僕マリウスさ」
「マリウス君。エルハルトさんは今どこに?」
「エルハルト兄さん? きっとまだ放牧中で山の方にいるよ」
「アルノルトさんはまだチューリヒに?」
「うん、アル兄ちゃんはお金無くなってしばらく帰って来れないんだって」
「そんなことが? ああ! どうすればいいの? 間に合わないわ」
「戦争ごっこのこと?」
「そうね。戦争のまねごとで国境を動かしたのを私が言っても証明出来ないわ」

 マリウスは得意げに言った。

「そう言っても子供の戯言だと笑われるだけさ。だから立て札で遊んじゃダメって言ったんだ」

 イサベラは小さな子にそう言われるのは、少し心外そうに言った。

「それもそうだけど……このままでは無罪になりそうなのよ」
「無罪! 僕ら追っかけられたのに? 丸太が当たってたら死んでたよ」
「ああ、そうだったわ。どうあってもそれは罪よね。加えてそれを言う事にするわ」
「国境の事は戻してくれるならそのまま黙ってた方がいいと思うよ。みんな怒られるから」
「そうね。後は紐の事はハッキリさせておかなくちゃ」

 そう言ってイサベラはクレア院長、そしてウルリッヒ修道院長と合流し、帰途についた。
 マリウスのところには、ソフィアとポリー、そしてボルクがやって来た。

「マリウスも飛び入りで証言したわね。立派に証人だものね」
「証人えらいね」

 娘達の声を聞いて、ボルクが言った。

「ちょうどいい。褒美だマリウス。帰りに家に寄ってけ。馬車が出来たぞ」
「ホントー?」

 マリウスはベルケル家の親子と連れ立って歩いて行った。
 広場の外れでアッティングハウゼンとシュヴァインスベルクが馬車を用意していると、予想通りの声が上がった。

「一緒に行きますよ」
「私も同行させていただきたい」

 ブルクハルトとルーデンツも国境の確認へ行こうと申し出たのだ。
 四人で馬車に乗り、国境の牛小屋まで向かった。
 馬車で二時間弱ほど走ると、その丸太小屋が見えて来た。

「ここか」

 村の裁判官達は小屋の前で馬車を降り、思い思いに小屋の中を見たり、周辺を見て回った。
 シュヴァインスベルクは立て札のある場所に行き、「ここですよ」と指を差した。
 アッティングハウゼンが立て札のある周囲を見回して言った。

「こんなところではなかったはずだのう。目印の木があったはずじゃ」
「やっぱり!」
「立て札の木が腐ってボロボロですな。折れて風でここまで来たのかも」

 ルーデンツがそう言うと、遅れてやって来たブルクハルトが言った。

「ラウフェンブルク領は尾根から向こうあたりだと聞いていたが、ここはかなり越えている。実際は違うんですかね?」

 アッティングハウゼンは言った。

「あの突端あたりに船着き場があるだろう、そこへ向かう坂道が尾根の向こうに大きく回り込んでいて、いい所に小川もあったから、国境もそれに沿っているんだ。譲った分は互いに緩衝地にするという条件付きでな」
「船着き場は一応ウーリ側のものだが、共用してるから、それは理に適っている。じゃあ、ここはどっち側なんです?」
「ここだけじゃ目印の木が判らん。少し歩こう」

 アッティングハウゼンは木々の繁る道を少し奥へと歩いて行き、すぐに目印の木を見つけた。隣には灌木に埋もれるように細い小川がある。

「ああ、これだこれだ」
「この大きな木?」
「そうじゃ。このあたりに立て札があったはずじゃ」

 シュヴァインスベルクは持って来た立て札をその辺りに置いた。すると折れた木の跡を見つけた。

「ここに杭の跡があります! ここから折れたんですね」
「という事は……」

 ブルクハルトが丸太小屋を振り返った。小屋を作ったのは自身の家族と関係者なので、結論をあまり言いたくない。ルーデンツが言葉を接いだ。

「被告の主張が立証されたな」
「ですが……かなりの疑惑まみれでしたよ?」
「共犯の疑いか。大方名前を出せない人がいるんだろう。黙秘権があるし、法に触れていなければ罪には出来んよ」

 そこへ馬車がやって来て、置いてあった馬車の後ろに停まった。その馬車からはイサベラとクレア、ウルリッヒ修道院長が降りて来た。イサベラは小屋へと歩いて行く。

「あれは原告達だ」
「どうしたんです?」

 ブルクハルトが手を振ってそう言うと、イサベラが小屋の前で言った。

「皆様、現場検証ご苦労様です。帰り際にもう一度、紐を見たいと……」
「そう言えば、ロープが残ってましたな。ちょうどいい。見てみましょう」

 ブルクハルトはアッティングハウゼン達を小屋に連れて行った。
 イサベラは一足先に小屋に着き、入り口の布を捲りつつ、傍らでその中を見つめていた。これから検証があるので、なるべく現場を触らないようにというのもあるが、まだ残る血の匂いが凄惨な記憶を呼び起こさせ、入る事を躊躇わせた。クレアとウルリッヒ修道院長は先に小屋へと入って行く。
 イサベラはそのまま全員が小屋に入ってしまうのを待ち、最後にそこに加わった。
 小屋の中でブルクハルトが状況の説明を始めた。

「牛の足は間違って立ち上がっても足が地面に着かないように、ロープで体に結び付けられていたんです。首からはこの柵にロープが結ばれていた。この柵に残っているロープはナイフで切られていて、地面に着いていない。だから汚れてないんです」
「切り口がガタガタだ」

 ルーデンツがロープの切り口を見て言うと、クレアは言った。

「この首の紐は私達が見つけた後に切ったのです。切るのに慣れてなくて」

 ブルクハルトは頷いて言った。

「そうでしたか。胴体と足を結んでいたロープもここに二つ落ちていて、足を結んでいた方はかなり血まみれ泥まみれです。このもう一方、胴体を結んでいたロープは、ここです」

 そのロープの切れ目はあまり汚れていなかった。ブルクハルトはそれを見せて言った。

「切り口をよく見て下さい」
「真っ直ぐだな。何で切ったらこうなる?」
「それは判りませんが、この真っ直ぐ鋭角な切り口と合うのは、足を結んでいたロープの側です。死んでから切ったなら、柵のものと同じように切り口がガタガタだったはずですし、切り口両方が同じように血で汚れていたはず。シスターの証言では片方だけ紐が生乾きで、切ってから明らかに時間が経っていたと……」

 聞かれてイサベラは言った。

「はい。見つけた時にはこの通り切れていました。片方は血が付いて半乾きでした。血が付いてから相当経っていたんです」
「血で濡れてたんですから、発見時ならその経過時間はもっと明確に感じられた事でしょう」
「はい。その通りですわ」

 思い出したのか、イサベラの顔色は少し悪くなっていた。

「その感じはどれくらい経ったと思いました?」
「乾くほどですから、三、四時間は経っている感じでした」

 ルーデンツが言った。

「発見時間から引き算すると、四時か五時にロープが切られたという事か」
「もっと前かも知れません。ロープを切った後からでも血は付きますから。でも、血が付いた時間はそれくらいという事になりますね」

 そう言うとイサベラはひどく気分が悪そうに目を背け、手に口を当てた。
 ブルクハルトは少し考えてから、アッティングハウゼンに手を向けた。
 何か質問があればというジェスチャーだ。
 アッティングハウゼンはしかし質問は無かった。

「それが牛の死亡推定時間というわけだ。シスターのお陰で良く判りましたのう」

 ブルクハルトはその言葉に頷いて言った。

「貴重な証言をありがとう」
「いえ。お役に立てましたらと。それともう一つ、訴状には無かったのですが、加えて欲しい事がありますの」
「何でしょう」
「息子さんのマリウス君と私で犯人を見つけて問い詰めた時、急に怒り出して木の棒を振り回して襲って来たんです。近くにいた騎士により難を逃れましたが、木の棒が頭の上をかすめて、命の危険がありました」

 ブルクハルトとアッティングハウゼンは顔を見合わせた。

「殺人未遂ですか?」
「騎士がいなかったらどうなった事か……だから、無罪になるのは怖いんです」

 イサベラは今日睨まれたあの目を思い出し、しばし震えた。

「調書には捕縛時に暴れたとはあったが、ウチの子も危なかったとは……判りました。明日はそれも罪状にして問い詰めましょう」
「よろしくお願いします」

 そう言ってイサベラはクレアに連れられ、馬車に乗り、帰路に就いた。
 アッティングハウゼンが馬車が出るのを見送って言った。

「シスターの証言もこれで立証されたというわけだ」

 ルーデンツは考え込むように言った。

「そうなると、通り掛かりの人が手伝ったというのも、時間的におかしい」

 ルーデンツの言葉にブルクハルトは頷いて言った。

「四時から五時はまだ真っ暗だ。ここを偶然通りかかる人なんているわけがない。計画的な行動だと考えるのが普通でしょうな。故意に紐を切って骨折を悪化させて、無罪の面目を作ったのかも知れませんな」

 シュヴァインスベルクが言った。

「しかしですね、ウーリの領内だったというなら、緩衝地にあるこの小屋自体が禁止事項です。そこにいる牛も迷い牛扱いですし、さらに骨折までしていれば普通は淘汰ですから死なしても罪は無いはずです。出来たとしても取られた肉の分の賠償請求が出来るくらいでしょう? それもここだけの習わしでは配ってしまえば無罪です。法の隙間を狙ったとしても罪に当たると断じる事は出来ません」

 アッティングハウゼンが頷いて言った。

「うーむ。状況は揃ったようだな。有益な検証だった」

 ウーリの一同は実地検証を終えると、国境の立て札を添え木を付けて立て直し、そして帰路に就いた。

 ◇  ○  ◇  ○  ◇

 青空裁判からの帰り道、マリウスとカリーナはベルケル家に寄った。
 そこにはボルクに修理をして貰っていた赤いミルク馬車があった。

「どうだ。小さいから改良にも大変だったぞ。部品が無くてな」
「前の車輪が小さくなったね」

 ボルクは馬車の梶棒を回しつつ言った。

「苦心の作だ。この梶棒を回すとな、一緒に前輪が回って動くだろう。車輪が大きいとこれが回らないんだ」
「わー、おもしろーい!」
「面白いだけじゃなくて、これが回らなくちゃ、方向転換が上手くいかないんだ」
「ふーん。そうなんだ。これで人も乗れるね」
「乗れるが、車体自体が小さい。子供二人までだな」
「二人乗れれば十分だ。ポリーも乗れるね。ソフィアも乗る?」
「乗れるー!」

 とポリーが喜ぶが、ソフィアは苦笑いだ。

「私しばらくいい……」

 ボルクが言った。

「御者を入れて二人だぞ。でも御者台が無いから馬車に乗ったら操作が難しい。このままだと馬は降りて引く方が無難だな」
「え。今までと変わらない……」
「そうでもないぞ。荷台に樽でも載せれば、樽に座ればいい」
「そうだね」
「ここを改造してしまうと、荷物が殆ど載らなくなるからな。おまけでこの樽を一つ付けよう」
「ありがとう。これで馬車に乗れそうだよ」
「あとは十分気を付けろ。事故は厳禁だ」
「うん……気を付ける」

 カリーナもお礼を言った。

「いいものを作ってくれてありがとう。良かったわねマリウス」
「うん」

 マリウスとカリーナは礼を言って家に帰って行った。

 夕方になり、エルハルトが家に帰って来ると、玄関口でマリウスに二階に呼び出された。

「ちょっと兄ちゃん、大変だ。上がって来て」
「何だ何だ?」

 マリウスは奥の部屋へエルハルトを連れて行き、しっかりドアを閉めた。

「今日は青空裁判があったんだ」
「そう言ってたな」
「それが大変なんだ。国境を動かした事がバレそうなんだ」
「そうか。まあいいんじゃないか?」
「あれ? いいの?」
「動かしたのはラウフェンブルクのお坊ちゃん達だろう?」
「あれれ? いいんだ。でも裁判で問題になってるんだ。小屋がウーリの方にあったから、牛の肉取っても無罪だって犯人が言っててね。お父さん達はそれで国境を調べに行ったんだ」
「そんなことを言ってるのか! それは不味かったな……」

 エルハルトは頭を抱えた。

「シスターのイサベラ様にお兄ちゃんを呼べないかって聞かれたんだ。明日また続きをするんだよ」

 エルハルトはかなり考え込んでから言った。

「裁判でその話が出たんじゃあ、もう諦めるしかないな。明日じゃ打つ手が無い」
「国境を移動出来てたんじゃなかったの?」
「あれはまあ方便というやつだ。一時の誤魔化し程度しか役に立たない事は誰でも判るよ」
「始めから子供のおふざけだとは思ってたよ……」
「子供に言われちまったな。まあ、ラウフェンブルクのお坊ちゃん達がしたことなら罪にはならないし、来て貰えば証言になるんだがな。しかし、もう今からじゃ無理だろう」
「お父さんには言っておく? 怒られちゃう?」
「そうだな……裁判に影響するなら言っておこうか」
「うん!」

 ブルクハルトが帰って来ると、エルハルトは国境を動かしたいきさつを話した。ブルクハルトは我が子がそれに関わっていたという事に驚嘆した。

「なんという事をしたんだ!」
「オレは手を出してないよ。ラウフェンブルクのお坊ちゃん達の手で国境侵犯してもらったんだ」
「それはそうだが、教唆というのも罪なんだぞ。勝手に国境を変えるような事をしおって! それを手引きすれば外患誘致罪にも当たる。しかも判事の息子がだぞ!」
「軽はずみな事を言い出した事は謝るよ」
「謝っても罪は罪だぞ」
「でもそのままだと小屋をあそこに建ててしまったのも違法だったし、なんとかしようと思ったんだ。確か場所は父さんも一緒に決めたよ」
「儂もいたな……小屋は皆で建ててたし……」
「父さん。国境を戻すには、もう一度協定を結ばないといけない事になってるんだ。一応は領主子息との約束だし、それを反故にするのは協定違反だ。逆に、協定はしっかり協定として扱ってやれば、これは全部合法になるんじゃないかな? しっかりした証人もいるし」
「むむ、そう言う事も……しかし、言うならもっと早く言え。もうそんな話を回すにも間に合わない。明日じゃあその証人にラウフェンブルク家を呼んでくる訳にも行かない」
「今から呼びに行ってはダメかな」
「ダメだ。ラウフェンブルク家には城が幾つもある。遠いし、今どこにいるか判らない」
「じゃあ、ラッペルスヴィル家のルーディック卿だったら? 一緒にいた立会人でもあるんだ」
「ルーディック卿ならラッペルスヴィル領にいるはずだが、ほぼチューリヒの距離だぞ。もう特急馬車も無いしな」
「知らせるだけなら、単騎で走れば、まだ行けるかもしれない……」
「かなり夜遅くに着くな。最後の城門で間に合わないかもしれない。ただ、アルノルトの事もある。知らせるだけ知らせてから、その足でチューリヒのアルノルトに帰る金を届けてやるのもいいな……」
「全ては父さんに預ける。オレの罪についても」

 ブルクハルトは威を正したエルハルトの目を見据えた。

「ではエルハルト、これは罰だ。お前を一時国外追放にする。三日間だ」
「じゃあ……」
「ああ、行って来い。湖で船を使って馬を休めつつ行けば、まだ間に合うかもしれない」
「放牧や、裁判は?」
「こちらはこちらでなんとかしよう。ヴァルターのところに人は余ってる」
「ありがとう。行って来る」

 エルハルトは神妙な面持ちで出発の準備を始めた。
 それを見たカリーナが「今からどこへ行くの?」と聞くが、エルハルトは上手く答えられず、「チューリヒにお金を届けるんだ」としか言えなかった。
 玄関先で、ブルクハルトは銀貨が沢山入った袋と手紙をエルハルトに渡した。

「これをアルノルトに。お前の分もある。船代もあるし、お前も帰れないなんて事が無いよう多めに入れてある。アルノルトは手紙の住所に今いるはずだ」
「父さん。今日は父さんの息子でいられて良かったと心から思うよ。これでアルノルトも帰るだろう。行って来る」

 外へ出ると時はもう夕方だったが、空はまだかなり明るい。
 エルハルトは馬を引き出して来て、素早く飛び乗ると、「ハ!」と声を発し、全速に近いスピードで坂道を駆け下りて行った。
 あっと言う間に村へと辿り着き、村の中ではゆっくりと歩き、人通りを抜けるとさらにエルハルトは加速する。そうしてアルトドルフの町も抜け、素晴らしい速さでウーリ湖のフリューエレンの港までやって来た。
 そこで馬と一緒に湖を渡す船に乗り、エルハルトは湖の真向かいに見えるシュウィーツのブルネンまで渡った。船上では休憩出来るので、馬もまた元気を取り戻して走る事が出来る。
 船がブルネンの港に着くと、あたりはもう夕闇だった。再び騎乗して幾つかの町を抜け、モルガルテンの長い谷を走り、山を越えれば、暗い中にもチューリヒ湖が見える。湖畔はもうラッペルスヴィル領だった。
 ラッペルスヴィル家の本城は湖の対岸にある。チューリヒ湖を渡る橋のように伸びる長い岬を進むと、その先には浮き橋が渡されているが、その前には高い城壁を巡らせた城砦があった。城へ着いたのは、夜もかなり更けた頃だった。城壁の門が完全に閉まっていて、城壁の上の衛兵を大声で呼んだ。

「衛兵さん!」
「何だこんな時間に」
「ラッペルスヴィル伯に急用なんだ。門を開けてくれ!」
「通行許可証はあるのか?」
「無い!」
「ならもう時間外だ。明日にするんだな」

 そう言って衛兵は建物に入ってしまった。

「頼む!」

 そう言ってももう衛兵は出て来てくれない。エルハルトは一度下がって手紙を書いた。そして、もう一度衛兵を呼び出し、戸口の小窓から手紙だけを受け取って貰った。
 門前払いをされてしまったエルハルトは、この真夜中に野外に放り出され、大いに戸惑った。夜も深まれば、かなり寒くなって来る。周囲には開いている宿も見当たらない。
 どうせならと、エルハルトは遠くからも灯りの見えるチューリヒへ向かった。
 チューリヒに着く頃にはもう日付が変わってしまっていた。そんな時間に開いている宿も店も皆無だった。
 幸い通りかかった聖母聖堂の礼拝堂だけは真夜中から開き始めた。修道女たちの聖書を読む声の響く中、エルハルトはそこへ入って行き、その片隅に懺悔室を見つけた。
 エルハルトはそこへ入り、その中で一人懺悔を始めた。その懺悔をいつの間にか向こうで修道女が聞いていた。

「どういった罪ですか?」
「私は国境を動かすような罪を犯してしまいました」
「それは聞いたこともないような大それた罪です」
「はい。スイマセン」
「失地回復は出来るのですか?」
「出来ます。これからします。絶対に」
「でしたら、頑張ることです。主もお許しになることでしょう」
「ありがとうございます……」
「共に神に許しを祈りましょう。天にまします我らが父よ。アーメン」
「アーメン……」

 そうしながらエルハルトはいつの間にかうつらうつらとし、その中で朝を迎えた。
 背の高い都会の家々に朝日が差し、川向かいには霧がかったグロスミュンスター大聖堂が聳えていた。
 聖母聖堂を出たエルハルトは見慣れない高い建物を見あげて川縁を歩き、橋の中央に立ち、そして改めて聖母聖堂を見あげた。両岸に大聖堂を挟んだその眺めは、あまりに荘厳で美しかった。
 エルハルトは橋の上からアルノルトのいるホテルの場所を見当付け、そこへ向かった。
 ホテルの戸を叩き、出て来た守衛にアルノルトを呼び出して貰うと、しばらくしてアルノルトは玄関扉を跳び出して来た。

「兄さん! 来てくれたんだ!」

 アルノルトは兄の腕に飛び付き、大いに喜んだが、エルハルトの表情は固い。

「おお、元気そうだな。すぐ出るんだ。これを渡しておく」

 エルハルトはアルノルトに銀貨の袋を渡した。
 アルノルトが袋を開けると、銀貨が十枚も入っている。

「すごい! 兄さん! ありがとう。でも、ありすぎるよ」
「オレの分を忘れてた。いくらいる?」
「うーん、六枚あれば元通りだ」

 エルハルトはそこから四枚取って、残るは六枚になった。

「給料も今日入るんだ。一気にお金持ちだよ」
「そうだったか。じゃあ、手間賃に一枚引いておこう。それで二人共で帰れるな」
「十分だ。兄貴は?」
「これから急ぎの用があるんだ」
「ウーリに帰るんだね?」
「いや……オレは三日間の国外追放中だ。しばらく帰れない」
「えっ。どうして?」
「例の国境を動かした事が裁判で問題になっててな。罰で追放を受けつつ、いろいろ手回し中だ。これからラッペルスヴィル城へ行ってルーディック卿に証言を頼むんだ」
「じゃあ、僕も行くよ」
「いいのか?」
「お金さえあれば、仕事はもう辞めさ。ちょっと支配人に言って来る。そこの広場で待ってて」

 アルノルトは一旦ホテルへ戻り、支配人をフロントで探すがまだいなかったので、厨房で料理していたコック長に今日で辞める事を言ってから、部屋へ荷物を取りに行った。
 その時間は朝食にはまだかなり早いが、セシリアは大部屋のテーブルで食事の準備をしていた。

「おはよう。セシリアさん」
「おはようございます」
「またパンだけ貰っていいですか? 仕事も切り上げて、今日はこれから遠くへ行くんです」

 アルノルトは晴れ晴れとした笑顔でそう言った。

「先程ご訪問の方ですね?」
「はい。兄がウーリからお金を届けてくれたんです。もしかしたら、もう戻らないかも知れない、そう伝えて下さい」
「会わずにお別れですか? ユッテ様が悲しまれます。明日のお出かけはどうされるのです?」
「そう言えば約束してた。じゃあ遅くなるかもしれないけど、戻って来ます。給料がまだだし、アフラもまだこっちだしね」
「お伝えしておきます」

 アルノルトは自分の分のパンを多めに貰い、広間のテーブルに置いてあるフルーツを幾つか鞄に放り込み、エルハルトの待つ広場へと走った。
 エルハルトは広場の奥の河辺で対岸を見て待っていた。まだ薄暗い中、窓の明かりがあちこちに灯り始めている。ちょうど朝六時の鐘が鳴った。

「兄さん、おまたせ」
「早くしろ。既に間に合わないペースなんだ。二人乗りじゃあ馬の足も鈍る」
「そうなの? じゃあ、辻馬車を使おうよ」
「結構距離があるから高過ぎるな。馬を置いていけないし」
「じゃあ、馬車を買おう」
「買えるのか?」
「おかげさまで資金はある。道の途中で使ってないような古い二輪の馬車が立てかけてあったんだ。安く売って貰おう。帰り賃が浮くし」
「馬車は今後あっても困らないしな。買うか」

 エルハルトとアルノルトは馬でチューリヒ近郊の馬車が立てかけてある家に行き、そこで安く馬車を売って貰った。
 幌を付ける為の部品や、馬を繋ぐ用具類も付けて貰えたので、その場で馬を馬車に繋ぎ、即席だが一頭立ての荷馬車が出来た。
 その馬車の道中でアルノルトはパンと果物を取り出し、エルハルトと分け合いながら食べた。エルハルトは昨日の昼から食べていなかったので、これにはかなり助かった。
 そして道すがら、アルノルトは兄に積もる話をした。ホテルでの仕事の話、アフラと王子の話、壺を割った事件の顛末、チューリヒの帝国執政官と出会って訴えを起こした事、話せばこんなに色々な事があったのかと自分でも感心する程の事を話した。
 馬車で二時間ほど走ると、ようやくラッペルスヴィル城へ続く長い半島の城砦の前まで来れた。
 城砦の門は、この時間なら門の脇にある鐘を鳴らせばいともあっさりと開いた。城砦を通り過ぎ、中の修道院の脇を抜けて、半島の突端に辿り着いた。二人はそこで馬車を降りた。
 横たわる湖のその対岸には広大な城砦都市が広がっていた。城壁を町ごと巡らせ、中央の丘の一番高いところに大きな城と修道院が並んで建っている。

「すごい! 流石はこの辺全部を保護国にしてた家だね」

 アルノルトがそう言うと、エルハルトも感嘆の声を上げるしかない。

「しかしまあ、なんていう大きさだ!」

 半島の突端からは長い長い桟橋が掛かっていて、その先には浮き橋があるのだが、普段は途中で折れた形で途切れている。それを巨大なローラーを数人で回してロープで引っ張り、真っ直ぐに引き延ばす事で向こうの桟橋と繋がり、対岸へと渡ることが出来るようになる。

「すごい仕組みだ」
「この城は難攻不落だな」

 アルノルト、そしてエルハルトは歩いてその橋を渡って行った。通行料が馬車付きだと高かったので、そこからは徒歩だ。
 そして、対岸の城壁を潜り、山上の城へ上り、二人はようやく入城を果たした。
 城門の受付でエルハルトがルーディックとの面会を申し出ると、女中のリーゼロッテが出て来て言った。

「ルーディック様は既に早朝に発たれました。奥様とルードルフ様も一緒です」
「昨日の手紙を見てくれたんですね?」
「はい」
「確かにウーリへ行ったんですね?」
「そうです。あなた、ウーリの!」

 エルハルトの後方にアルノルトを見つけたリーゼロッテは、アルノルトに微笑みかけた。

「こんにちは。先に行ってしまったようで残念です」

 リーゼロッテが慌てて掌を前に出して言った。

「待って。お手紙を預かっていますよ」

 リーゼロッテは一度引っ込んでから、手紙を持って来た。受け取ったアルノルトが兄にそれを渡し、エルハルトがそれを開くと、こう書かれている。

親愛なるアルノルト

先にウーリに行く。追って来るかい?
手紙の件、戦後協定のこと、善処する。
次は一緒に食事でもしよう。

               ルーディックより

「アルノルト宛だな」

 エルハルトは不敵なスマイルで手紙をアルノルトに渡した。

「本当だ。きっと僕と勘違いしたんだ。追ってみる?」
「いや、ウーリに行ってくれたならそれでいいんだ。そもそも三日間追放の身だしな」
「僕も行きたいところだけど、約束があるんだ。チューリヒに戻るよ」
「オレもそうしよう」
「待って。返事の手紙を書くよ」

 アルノルトはルーディックに手紙を書き、リーゼロッテに渡した。
 そして二人はリーゼロッテに別れを言って城を後にした。


 この日もウーリの菩提樹の広場では、裁判の続きが行われていた。昨日と違うのは、原告席の隣が拡張され、ラッペルスヴィル家のルーディックと、ラウフェンブルク家のルードルフ三世がいた事だった。エリーザベトは傍聴席の方でゲスレルと机を並べている。
 原告席のイサベラの隣のテーブルにルーディックが座ったので、時に壇上でお喋りをして、議事が混乱を呈していた。

「静粛に」

 シュヴァインスベルクが皆に聞こえるように話をした。

「国境の位置について、昨日現地調査をした所、国境の立て札は本来の位置よりウーリ側に移動されていた事が判りました。被告の主張は完全に裏付けられたことになり、ウーリ側に牛小屋があったので、被告は骨折の悪化で牛を死なしたとは言え、所有権を放棄された迷い牛扱いとなり、この件は無罪という事になります。解体の手順を取って肉を配ったのも、その場所の慣習ですので、これも無罪を主張致します」

 ブルクハルトが口を開いた。

「国境の移動に関しては、新事実が判った。子供達の間で起こった事だが、国際協定が結ばれていたとの事だ。今日はその証人をお呼びしている。ラウフェンブルク家のルードルフ卿と、その立会人であられたラッペルスヴィルのルーディック卿だ。まずはラウフェンブルク家としてルードルフ卿、どういった経緯で協定が結ばれたのかをご証言いただけますかな?」

 ルードルフは背は高めだが、まだ十三歳で、語り口調は純朴な子供のようだ。

「僕はハルトマンと一緒に歩いただけだ。国境の札を持って進んで、五十歩だった……」

 そう言うルードルフをルーディックが遮り、証言を代わった。

「私から言いましょう。領主代表としては、もう一人ラウフェンブルク家のハルトマンがいたのですが、今日は急だったので欠席しています。僕ら三人が国境の牛小屋に行った時、国境の立て札が倒れて場所が不明確になっていました。既に建っていた牛小屋はかなり際どい場所にあり、僕らは話し合ってそれがラウフェンブルク領の側になるようにして暫定的に国境線を決めたのです。勿論、そこにいたウーリの人との協議の上です。それでルードルフ、暫定の国境線を探し歩いたんだね」
「うん。ルーディックの言う通りです」
「これは一種の国境争議とも言えます。領主代表としてハルトマンとルードルフはその場でウーリの代表の方と協定を結び、後日正式に国境調定を開くまではそのまま現状を維持するという協定を結んだのです。私ホーンベルク・フォン・ルーディックは確かにそれに立ち会いました」

 ルーデンツが訊いた。

「そのウーリ代表の方というのは誰ですかな?」
「名前は確か、エルハルトさんです」
「なんと。シュッペルの倅か」

 周囲の人々がざわついた。
 ブルクハルトが口を開いた。

「我が息子です。証言は私が息子の口から聞いていた内容とほぼ同様でした。父親としては勝手な協定を結んだ事をお詫びしなければなりません。その罰として私は息子のエルハルトを三日間の国外追放にしました。しかし元を辿ればこれも国境の立て札が折れ飛んで、不明確になっていたためでもあり、共同体としての落ち度でもある。これに由来して皆が気付かず小屋を建てた事や、こうした国際協定を結ぶ事になったのも、その落ち度をカバーする為に起こった事で、これに関わる全員を罪を問うような愚はしないようにすべきだと思うのだが、如何か」

 アッティングハウゼンは頷いた。

「まあそれはそうだ。立て札は元の位置にしっかりしたものを造り直し、国境線は元に戻す事にしよう。それで全員この件はお咎め無しだ」

 ブルクハルトはこれに胸を撫で下ろした。

「ハルトマンには私からもお伝えしましょう」

 ルーディックが胸に手を当てて言う。アッティングハウゼンは頷いた。

「それはそうとして、今の裁判の話だが、国境はこの協定があれば、動いていたという事になるかの?」

 訊かれたヴァルターは言った。

「国境は我々で承認してませんで、まだ未確定状態だったのでは?」
「未確定状態か。その場合は処置に困る事だのう」

 シュヴァインスベルクが言った。

「しかし、その事を殆ど誰も知りませんでした。なら事実線は国境はそのままという認識で動くものでしょう。ならば無罪です」

 アッティングハウゼンは息子の言う事だと、すぐに頷いてしまう。

「それもそうか。なら無罪になるか……」

 ブルクハルトが語尾を被せて鋭く言った。

「ちょっと待って下さい! 昨日のシスターの証言がまだだ」

 そう言われたイサベラは諦めの色から、少し目に光が灯った。

「昨日シスターからの新証言がありました。一つはロープの切れ端について。昨日の現場検証では確かにロープの切り口には片方に血に濡れた跡があり、そこから切ってからかなりの時間が経っていた事が伺えました。シスターの証言通りだったのです」

 ルーデンツがその言葉を継いで言った。

「そこから牛が死んだと推定される時間は、朝五時頃。そんな時分に通りが掛かりの人はいない。つまり協力者を呼んで、計画的に牛の足を折らせ、無罪の状況を作ってから解体している事が疑われる。それにあの切り口……あの真っ直ぐ斜めの切れ方。ナイフではあの様には絶対に切れない」

 アッティングハウゼンは驚いた。

「と言うと、何で切ったんだ?」
「実際に昨日何度もやってみて判った。あれはサーベルの切れ味ですよ。しかも相当腕の立つ者でなければ、ああは切れない」
「なんと! ここへ来て真犯人登場か!」
「残念ながら登場はしません。被告がずっと隠しているのでな。被告よ。誰が切ったか、話す気はあるかな?」
「儂は知らん」

 被告マグナはただ首を振った。ルーデンツは即座にこれに詰め寄った。

「知らんという事は、自分ではないという事だ。これは共犯がいたという事ですな」
「異議あり。それは証拠の無い憶測でしょう」

 シュヴァインスベルクは異議を唱えつつも、内心ヒヤリとした。形勢は一気に被告に不利になった。

「牛飼いは普段サーベルを持ち歩かない。サーベルで切ったという事は限りなく証拠に近いだろう」

 シュヴァインスベルクは返す言葉が見つからなかった。
 被告マグナも脂汗を流し始めた。
 さらに、ブルクハルトが言った。

「加えて、シスターからはもう一つ訴えがあった。被告を捕まえる時にシスターと我が子マリウスが問い詰めると、木の棒を振り回して危害を加えられそうになったという事だ。それは殺人未遂にも相当する程危険だった。そうですね? シスター」
「はい!」

 イサベラは頷いた。

「そうだそうだ!」

 最前列で見ていたマリウスも声を上げた。
 するとルーディックが色めき立って言った。

「姫に……シスターに、何と言う事を! けしからん! 許せない! 極刑を強く望む!」

 傍聴席からエリーザベトが立ち上がり、ルーディックへ人差し指を立てれば、その騒ぎは収まった。
 それを見届けてからブルクハルトは続けた。

「これは国境に関係なく見逃せない罪。殺人未遂の罪を問うべきでしょう」
「確かにこれは罪じゃ」

 アッティングハウゼンはルーディックの勢いに押されながら頷いた。実際に守護権者に極刑にしろと言われればその通りにする事も選択肢として有り得る。しかしここはウーリ、自治共同体の方に決定権がある。
 マグナはさっきまで含み笑いを浮かべていたが、一気に怖い顔になった。
 アッティングハウゼンはそんな被告を見て言った。

「どうだ。被告マグナ。二人を木の棒で殴ろうとしたかね?」

 マグナは事も無げに言った。

「少し脅かしただけで。裁判すると脅かされたもので」
「殴るつもりは無かったと?」
「はい。それは勿論で」
「極めて危険行為だ! 戦争になりかねない!」

 真剣な顔でルーディックは机を叩いてそう言った。
 誰もがエンゲルベルクと争いの事かと思ったが、事はもっと深刻だった。戦争寸前の状態にあるブルグント公国の公女その人だったのだから。
 アッティングハウゼンは努めて穏やかに言った。

「ルーディック卿、貴殿は今日は証人じゃ。許可無き発言はお控えを。じゃが守護権者でもある。この後の審理でご意見を聞かせていただきましょう」

 アッティングハウゼンは周囲を見回しつつ言った。

「これで証言は出揃ったようだ。誰かまだ意見がある者は?」

 すると、エンゲルベルクのウルリッヒ修道院長が言った。

「エンゲルベルクが牛を失った損害を、しっかり賠償してくれるのかね。当代最高の牛だぞ! 牛三頭は貰っても遜色無い」

 アッティングハウゼンは首を振った。

「領内の慣習ではあの地域の迷い牛は所有者無しの扱いになる。越境してきた牛は持ち主を捜索出来ないのでな。残念ながらあまりご期待には添えないでしょうのう」
「何だと! 聞けば国境が不明確であったのは共同体の手落ちだそうじゃないか。ならばウーリでそれを持っていただくのがしかるべきでしょうな」
「なんとウーリで! しかし、それは個人の刑とはまた別の事として話さねばなりませんな。では、他は無いかのう」

 それ以上意見は出ないようだった。アッティングハウゼンは木槌を鳴らした。

「では、これにて審理に移る。二時間後に判決を申し渡すこととする!」

 裁判官達とルーディック、そしてエリーザベートは別室に移動して審理をした。
 そこでアーマン達はエリーザベトから驚くべき事実を聞く事になる。

「現在も継続しているブルグント諸国同盟との戦争には、今にもブルグント公国が参戦しそうな事は知ってますね。秘密にされているのですが、シスターアニエスはブルグント公国当主の母違いのお妹、そう言うと遠いようですが、つまり前当主の公女に当たる方なのです」
「なんと! どおりで気品があると……」
「もし、何らかの危害が加えられていれば、終わりかけている戦争にブルクント公国が参戦して、さらなる大戦が起こったかもしれません」

 それを考えると全員背筋が寒くなる想いがした。ブルクハルトが冷や汗を拭って言った。

「危うくウーリが国際規模の事件を起こすところでしたな」

 ヴァルターが言った。

「しかしさ、被告は知らない事だし、それも脅かしだけの未遂でしょう。他も習わしに沿っただけというのも事実ですよ?」

 ルーディックは首を振って言った。

「ブルグント公女への殺人未遂です。最大刑でなければ相手国は納得しないでしょう」

 アッティングハウゼンはその意味をようやく理解した。

「殺人未遂だと、死刑には出来ませんのう。禁固という刑が我々には無いし、次には国外追放じゃが……」

 ブルクハルトが頷いた。

「ラント永久追放ですね。盗みなら指や手を切断する所ですが、今回その罪は習わしがあるので不問というのが妥当なところでしょう」

 ブルクハルトのその声で、三人の胸は決まったようだ。

「手緩い!」

 そう後から叫んだのは後の方で聞いていた代理執政官、ゲスレルだ。

「今回は傍聴だけのお約束でしたぞ?」

 アッティングハウゼンはそう言ってその発言を牽制した。ゲスレルは続けた。

「一応監督官として言っておく。両目をくり抜いてやればいいのだ。今後の愁いも無い」
「我々ウーリは山ばかりですからな、そのような刑は採らないのです。誰かがずっと世話に明け暮れる事になる。やっても手や指を切るくらいでしてな。一応聞くが、代官殿のご意見に賛成する者はいるか?」

 それには誰も手を上げず、ブルクハルトは首を振った。

「却下ですな」

 ゲスレルは不干渉の約束だったので、それ以上は言及しなかった。
 アッティングハウゼンがもう一つの問題を言った。

「エンゲルベルクの事はどうする? 牛三頭と言って来た」

 ヴァルターが首を捻った。

「そりゃあふっかけ過ぎだあ。修道院だと言うのにがめついねえ」

 ブルクハルトが言った。

「だが、被告が肉を持って行ったのは確かだ。牛一頭は贖って貰いましょう。一番大きいのを選んでな」
「もう二頭は?」
「法は法だ。それを越えて二つの命を渡す義理は無い。多くの肉はギルドに売って行ったそうだし、対価はもう得ているはずだ」
「それもそうだ」
「決まりでさあな」
「ルーディック卿もご異議はございませんな?」
「一つ気になる事があります。隠れた共犯もいるようですし、公女様を睨んでいた被告が、舞い戻って来て変な事を起こさないようにしていただきたいのです」
「逆恨みですか。なかなか難しいですのう。普段はエンゲルベルクの人ですから。いい案は無いかブルクハルト」
「昔使ってた罪人の焼き印を使いましょう。古い人にはその意味が判るでしょう」
「それしかなさそうじゃ。他にご意見があれば?」

 ブルクハルトはもう一つの懸念を言った。

「国境の協定については……後日ですか?」

 それにはルーディックが言った。

「国境はもう戻しておいて下さい。ラウフェンブルク家には僕から言っておきます。変な所に話が回ると大事になりますので、ここで終わりにしておきましょう」
「助かります」
「いいえ。こちらこそ呼んでいただいていろいろ助かりました。アルノルトにはよろしく言っておいて下さい」
「はあ……」

 ブルクハルトはアルノルトの名が唐突に出て来て戸惑うよりない。
 ルーディックは手紙のエルハルトのサインが達筆過ぎて読みにくく、アルノルトだと思っていたのだ。
 そして、判決の時を迎えた。
 再び人々は広場に集まり、アッティングハウゼンによって判決は下された。

「判決を申し渡す。被告マグナ・ボーデン。牛を死に至らせ、牛の肉を盗んだ罪、これは国境の不明確さによって起こった事でもあり、この地の慣例にあった事よって盗みの罪としては問わないが、損害を与えた代償として最大級の牛一頭を共同体に引き渡す事。これをエンゲルベルクへの賠償として充当する事とする」
「おお」

 想定内だったマグナの表情は安堵の笑みだ。だが、罪はこれだけではなかった。

「加えて、検挙時におけるエンゲルベルクのシスターとウーリの子供に対する殺人未遂の罪。抵抗力の無い他国のシスターと子供にこれは許し難い。よってラント永久追放、並びに焼き印の刑とする」

 マグナの顔は一気に蒼白になった。そして叫んだ。

「何故だ! 脅かしただけだ! 何故ダアア!」

 マグナは縛られたまま暴れた。そして椅子ごと木箱から落ちた。椅子が木っ端微塵に折れ、ロープが緩んだ。
 シュヴァインスベルクや周囲の者がロープを結び直そうとしたが、マグナは尚も暴れ、椅子の残骸で体当たりをして追い払った。
 そして、椅子の残骸をぶら下げたまま、マグナは巨体を持ち上げて立ち上がった。さらにロープを解こうとしたが、ロープは二重になっていたので、それ以上はなかなか緩まなかった。ようやく足のロープが解け、そのまま走り出そうとした。しかし、周りは人で囲まれていた。

「逃げられんぞ! これ以上は刑が非道いぞ!」

 アッティングハウゼンの一言で、マグナは動きを止めた。
 アッティングハウゼンは続けて言った。

「そなたは上手くやったつもりだったであろう。しかし、既に意図した工作だった事は明らかだ。露見して子供達に危害を加えようとしたのもその一環だった事が伺える。そしてその子供こそ我々が護らねばならない存在だ。加えて他国のシスターも護られねばならない。これでも抑えて減刑しているぞ。生きていける程にはな。よってこの刑だ。判ったか? 判ったら観念する事だ」
「判った。煮るなり焼くなり好きにしろ」

 マグナはその場に座り込んだ。

「では刑の執行は、ブルクハルト?」

 アッティングハウゼンがブルクハルトに振ると、申し訳なさそうに言った。

「それはまた後日で……」
「そりゃまたいつ?」
「どこに仕舞ったか、焼きゴテが見つからないので、もう少し時間を下さい」
「では、焼き印の刑は後日都合がついてからだ。それよりまずは牛の引き渡しじゃな。シュヴァインスベルク、罪人を連れて家に行き、最大級の牛を押収してくるのじゃ。国外退去の準備もあるだろう。シュヴァインスベルクが見張りつつそれをやらせるがいい。退去は一週間以内とする。いいな」

 シュヴァインスベルクはマグナを新たなロープで縛りつつ言った。

「はい。判りました」

 シュヴァインスベルクは罪人を縛り上げると、馬車へと連れて行った。
 イサベラはその姿を見送りつつ、言い知れない不安を感じた。
 隣から、エンゲルベルクのウルリッヒ修道院長が非難の声を上げた。

「牛一頭では見合わない! あと二頭はどうするつもりだ」
「こちらでの刑は既に決定した。最大の牛であればそう遜色は無いはずだ。命の数一つに対しては命一つで贖う、そういう方針だ。三つも命を取っては修道院の名が穢れるじゃろうて」
「むう。しかし、特別な牛だったのだ」
「上訴するのは構わんが、この罪人が追放になれば行方は追えんじゃろう。相手が居なければ訴えも通らないし、再び捕まえて、チューリヒで裁判するとなると、費用は牛一頭どころでは済まんじゃろうな」
「むう。牛が大きければ呑むよりないようだ」
「納得して戴けたようじゃな」

 ウルリッヒ修道院長は、アッティングハウゼンに改めて向き直り、再び非難めいた口調で言った。

「今回国境が不明確だった事が問題となったようだから、はっきりさせておきたい事がある。我がエンゲルベルクとウーリの高地の国境にも未確定箇所がある。間のちょうどいい所に峠があるから昔からそこを目印にして来たが、最近またウーリの者が峠を越えた所まで勝手に木の柵を作ってる者がいる。これは元通り、峠まで国境を下げて貰いたい。元の峠、ズレンネン峠を国境とここで確認したい」

 二人の間にいたブルクハルトが言った。

「そこは緩衝地として放牧では譲り合って使うと随分前に裁定されているはずです。こちら側では既にあの峠の下まで整備されていて、日常行くくらいの場所になっているし、峠自体かなりこちら寄りだ。それに元来、未確定な地域は開拓したラントの領になると決められているはずですが?」

 ウルリッヒは立ち上がって言った。

「開拓も何も、元から何も無い草原じゃないか! そこに勝手に柵や石積みを置いただけで何を言うか! すぐにこれを撤去するんだ」

 ブルクハルトも立ち上がった。

「柵も放牧の為には必要だ。潅木を切ったり、道を作ったり、重要な開拓したのは事実だ。木の柵は確たる開拓の印だ。この事実がある限り、おいそれと下げるわけにはいかん!」
「互いに譲れぬとあらば、これこそ裁判で戦わざるを得ない!」
「開拓している我が方こそ有利だ。受けて立とう!」

 二人は至近距離で睨み合った。

「お二人さん。それはまた別の話じゃ。続けて裁判の二ラウンド目を始めるつもりか。もうこの辺で結審とするぞ」

 アッティングハウゼンは木槌を叩いて「これにて結審!」と告げた。
 広場に集まった人々は最後に白熱した話に溜息を漏らしつつ、解散していった。

 木箱の壇から降りて、ルーディックはイサベラに声を掛けた。

「いやぁ、波乱含みな結審でした。ともあれ刑が決まって、良かったですね」
「追放では安心出来ませんね。エンゲルベルクに来たらどうしましょう」

 イサベラはそう言って苦笑いをした。

「それは考えませんでした。刑を変えるように言って来ましょうか」
「もうウーリで決した事ですから、尊重すべきです。受け入れるよりありません」
「そうですね。今回は学ぶところ多かったです。これもアルノルトが呼んでくれたお陰です」

 エリーザベトもそれには大いに頷いた。

「本当に学び多いこと。急でしたが、来て正解でした」

 イサベラが怪訝そうに言った。

「アルノルトさんはアクシデントがあって、今チューリヒにいるとか?」
「そうなんですか? 何があったんでしょう?」
「詳しくは知らされてないのです。お金が無くなったとか」
「それは心配ですね。この後チューリヒまでお送りするお約束でしたが……もしかするとそれもあって?」
「いえ、それはユッテ王女に会うためと、あとクヌフウタさんの巡礼の為なんですよ。それと気になる先生がいるそうで」

 イサベラがそう言うと、エリーザベトが言った。

「今日はラッペルスヴィルの私共の本城に御逗留下さい。ラッペルスヴィルも修道院の町ですから、是非見て行って下さい。御歓待致しますよ」
「誠にありがとうございます。では、クヌフウタさんを呼んで来ます。少しお待ち下さい」

 イサベラは、アルトドルフの教会で待っていたクヌフウタを呼びに行った。
 歩いていると、マリウスがやって来て言った。

「あの人、また暴れて怖かったね」
「そうね。怖かったわ」
「有罪で良かったね」
「ええ。良かった」
「でも永久追放って長過ぎだね。永久だよ? どれくらい?」
「ずーっといつまでもよ」

 そう言いながらイサベラがマリウスと一緒に広場を抜けて歩いて行くと、教会前には人垣が出来ていた。その半分以上は小さな子供で、マリウスとも知り合いだ。
 教会の軒先ではクヌフウタが村の人に簡単な診療をしていた。捻挫の人には花の汁を塗って包帯を巻き、腹痛の人には、薬の材料となるキンセンカの花が入った小瓶を取り出し、それを見本に見せて採り方と飲み方を教えている。

「これは軽めの腹痛に効きますが、傷にも効いて、風邪にも効く万能薬なんですよ。腹痛がもっとひどい時は、高地にだけ生えるこの白い腹痛草が必要です」

 クヌフウタはそう言って、白いエーデルワイスの花を見せた。当時この地にまだその名は無く、腹痛草が一般的な名前だった。
 小さな村娘は「これ頂戴」とその花を欲しがった。

「これは稀少だし、見本なのであげられません。高い山に生えているので採って来てね」
「お腹痛くて無理……」
「こちらならあげます。カレンデュラとも言って、何処でも生えてるでしょう?」

 クヌフウタはキンセンカの花の塊を幾つか子供に手渡した。

「わあ。綺麗」

 子供達が集まって来てそれを見て、飲むより前に大喜びだ。

「見せて見せて」と、マリウスも加わってそれを見ていた。
 見物人たちもそれを近くで見て、しきりに頷いている。

「とても痛いから、そっちの白い花も」と子供は白い花も欲しがった。

「では、また行って採って来ますので」

 そう言ってクヌフウタは白い花を小瓶から取り出して、子供に渡した。

「ありがとう! 綺麗……」

 それを見に再び人々が群がった。

「これは珍しい……」
「こっちは見たことないな」

 その隙に強引に人垣の前に出て、イサベラは言った。

「クヌフウタさん。そろそろ行きますよ」
「こんなに人がいるのです。しばらく待って下さい」

 クヌフウタは少しペースを早め、「同じ症状の方」と症状毎に数人をいっぺんに診療した。「もしくは風邪の方」と付け加え、同じキンセンカの花を渡す。
 そうしていると、ルーディックとエリーザベトもその近くへ来て、人集りを見て言った。

「これは……しばらく待つしかないようですね」

 程なくしてクヌフウタは集まった人々の診療を急いで終わらせ、こちらへやって来た。

「すいません。大変お待たせしました」

 エリーザベトはクヌフウタに深く礼を取っていた。

「お久しゅう御座います。村の人にこんなに慕われては無理も御座いません。本日は私共の馬車をお使い下さい。我が本城までご案内致します」

 エリーザベトは恭しくそう言った。クヌフウタは一張羅でボロの修道服を纏うが、ボヘミアの王位に就いたベンケルの姉、つまり本来なら王女だ。
 イサベラとクヌフウタはルーディック達と馬車へ乗り込み、ラッペルスヴィル城へと向かった。
 その後ろから黒い騎士の集団が追っていた事に気付いたのは、花を貰った小さな女の子だった。

「変な人がいる……」
「どこ?」

 次の瞬間には黒い集団は姿を消していた。


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