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活私奉公と滅私奉公(自己犠牲)

東大応援部の3Sスピリッツの2つ目は「サクリファイス(Sacrifice)」だ。日本語で自己犠牲と訳す。

Wikipediaには、
「自己犠牲(じこぎせい、self-sacrifice)とは、何らかの目的や他者のために、自己の時間・労力・身体・生命をささげること」
と書いてある。

また、日本語には、「滅私奉公」という言葉がある。「私を滅して、公に奉ずる」こと。これは「自己犠牲」と同義だ。
私を滅すれば、その場は奉公できると言えるが、それはその場限りであり、それでは何か事を成すために生まれてきた甲斐がないではないか。溺れた子を救うために、自分の命と引き換えに子を救うという母の愛は究極の事態だ。
これが、公に奉ずる「滅私奉公」となると、そんなわけにはいかない。「死んで花実が咲くものか」
死んでしまっては、その人にミッションを与えてこの世に送り込んでくれた天に申し訳ないではないか。

そんな想いで、私は、サクリファイス(Sacrifice)を「活私奉公」と 意訳した。
すなわち、サクリファイスとは、「天から与えられた己の得手を磨き続け、その得手をフルに活かすことで、世のため人のために尽くすこと」の意味だ。

だが、ふと考える。
「公私」という言葉がある。「公私は混同してはいけない」ことは世間の常識だ。特に公に尽くす政治家や公務員には、厳に公私混同は許されない。

では、公(おおやけ)とは何か、私(わたくし)とは何か。

それぞれピンからキリまであるだろう。
公は、大きくは世界や日本、都道府県。身近なところでは地域や会社がある。
一方、私は、私個人だったり、家族だったり、会社であることもある。それだけ公私の境目はケースバイケースだ。

こちらを立てればあちらが立たないこともよくあることだ。そんなに単純なことではない。

私がサクリファイスを活私奉公と訳した、その私とは何か、公とは何か。
私とは私個人のことか、家族まで含めての私か。
同様に、公とはどんな範疇の公なのか。

NHKの大河ドラマの「せごどん」で、西郷夫人が夫の隆盛を回想して言った言葉がある。
「夫が西郷隆盛でなかったなら、私は幸せな人生を送っていたのにと思うことがある」と。

また、稲盛和夫さんは、あるテレビのインタビューで仰っていた。
「妻や子どもには、この上ない迷惑をかけた。いい夫でなかったし、いい親でもなかった。そんな一生だった」と。

しかし、西郷夫人も稲盛夫人もお子様たちも、西郷隆盛や稲盛和夫を心から尊敬していらしたことに間違いはない。
お二人の日本に与えた功績は、誰もが成し得ない稀有なものだからだ。それは日本人の心に、世のため人のために生きる「清き、大きな心の大切さ」を教えてくれたからだ。

世の中すべての人たちに幸せを与えることは不可能だろう。しかし、できる限り多くの人たちに幸せを与えたいと思い、そのように生きることは何と尊いことか。

私にそんな生き方がどれだけできるだろうか。浅学非才の私である。
トマトはメロンにはなることはできないが、せいぜいトマトらしく、世のため人のために尽くす人生を生きていきたいと思う。

そんな生き方をしていれば、多くの心清き人たちが私の周りに集まってきてくれて、私と共に、私のミッションを果たす手助けをしてくれることだろう。

思いあがらず、
下座に徹して生きる時、
天が君を助けてくれる。
(森信三)

あなたの目的とするものは何か、
それさえしっかり持っているならば、
必ずや道は開かれるだろう。
(ガンジー)

私が自分だけのために働いているときには、自分だけしか私のために働かなかった。
しかし、私が人のために働くようになってからは、人も私のために働いてくれた。
(ベンジャミン・フランクリン)

ビジネスで成功する一番の方法は、
人からいくら取るかをいつも考えるのではなく、人にどれだけのことをしてあげられるかを考えることである。
(デール・カーネギー)

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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