モネが目指した美~浮世絵から印象派~

印象派絵画の巨匠:クロード・モネ。
彼の創作人生に最大の影響をもたらした作品がある。

葛飾北斎の富嶽三十六景です。
モネは北斎の作品を目の当たりにして人生が変わることになる。

今日はモネの目指した作品とは、北斎の作品に何を彼が見たのか、それを紹介したいと思います。

【落書きからのスタート】
クロード・モネはフランス・パリで生まれます。1840年のことです。

彼は勉強が苦手で先生の授業を聞かず、ノートに先生の似顔絵を描いていました。その似顔絵は落書きみたいな稚拙なものではありましたが、先生の特徴をよく捉えておりクラスの中を爆笑の渦に巻き込んだと言います。

その時に幼いモネは思います。
「絵には人を楽しませる力がある!」

モネはそれから街に出て、通行人や色んな人の似顔絵を描きました。時にはお金も貰うこともあったようです。

モネはそんな時にある画家に出逢います。

風景画の巨匠であり、空の王者と呼ばれた、ウジェーヌ・ブーダンです。

ブーダンはモネの才能を一眼で見抜きます。

「似顔絵ばかり描いていては君の絵の才能が勿体ない。もっと風景画を描いて、観察することを身につけなさい。そうすれば今よりもっと上手くなる。」

ブーダンの言葉に嬉しくなったモネは風景画を描きまくります。後年、モネはブーダンは私の師であったと述懐しています。

「対象にしっかり向き合い、観察すること。変化を見逃す人間に、明日はない。」



【印象派の誕生】

モネは描き続け、気がつけば30歳になっていました。
まだ芽が出ず画家としては貧乏な毎日でした。

しかしモネには確信がありました。

「何でも吸収し自分の養分にしていけば、必ず自分だけの境地に達することが出来る。大切なのは好奇心。重要なのは心にひっかかるものは全て取り入れてみるということ。心に貯えがないものに、創作など出来はしない。

この時モネはすでに日本の浮世絵というものを知っており、自分の作風に取り入れ初めている時期です。

34歳の時にサロン(フランスの公式絵画展)で入賞しますが、評判そのものは散々なものでした。当時写実的な対象を具現化して描くことは珍しく、多くの美術評論家たちからバカにされていました。

その時に皮肉って呼ばれたのが「印象主義者」であり、これがフランスにおける印象派発祥の所以でもあります。

人間の常識なんて当てにならないもので、現在では印象派画家は現代美術界においては大変重要であり、一部では神とまで崇められている画家もいます。

そんな時期にモネが出会ったのが、北斎の富嶽三十六景でした。

「遠近法」に捉われることなく、見たまま、感じたままを自由に描いた北斎の作品を見て、モネは衝撃を受けます。

「わずか半世紀前に天才が日本にいた」



【睡蓮へ】

睡蓮という作品はモネを代表する作品の一つで、約30年をかけて約200作品を描いた連作でもあります。

パリ郊外ジヴェルニー村の自邸に、自らの手で丹精込めて作り上げた日本風の庭園で生まれました。

この連作こそが北斎の富嶽三十六景から受けた影響が見られます。
また池に架かる橋も日本風ですし、塗り方も東洋美術を強く意識したものとなっています。

しかし、その道のりは決して平坦ではなく、白内障や、度重なる家族の不幸に悩まされ、一度は作品の完成を諦めかけました。しかし、フランス首相だった友人のクレマンソーらの温かい励ましに見守られながら、独自の美の世界を完成させたのです。

モネは1926年、86歳でこの世を去りますが、睡蓮は「印象主義のシスティーナ礼拝堂」と呼ばれるようになりました。


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