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医者を辞めた理由

 アサが強い揺れに目を覚ました時、通路を挟んで反対側の席に座るネズミは新聞を読んでいた。窓の外には絵の具を溶かしたような不自然な青さの海が広がる。ネズミ側の窓から見えるのは、延々とつづく砂の山脈。アサは靴を脱いで両足を前の座席に投げ出し、もう一度ネズミを見た。ネズミは新聞から目を離さない。アサは大きく息を吐く。ネズミが何者なのか分からないが、元の世界に帰る方法を知っているのはネズミに違いない。何か手掛かりになることはないか。アサは少し通路側に身体をずらしてネズミに声をかける。
「ねぇ、ネズミさん。あなたってなんでこの列車に乗ってるの?」
 ネズミは開いていた新聞を閉じて、アサのほうに顔を向ける。
「人を探しているのです。素晴らしい技術と知識を持った医師を」
「特定の誰か? それとも、そういう人に会いたいっていう話?」
「彼女は医者の家系の娘さんだったようで、家が個人病院を経営していました。幼い頃から家の手伝いをしながら、知識や技術を学んだ。ご両親と比べて臨床医として適性があったんでしょうね。また、非常に優れた観察力の持ち主で、研究者としても数々の実績を残されてます。その一つが、脳の海馬細胞の増殖を促進する薬剤の開発。記憶がなくなっていく病気の治癒方法の確立に貢献した」
 ネズミは新聞を指で軽く叩きながら「と、こちらの新聞に紹介されています」と言い、アサに新聞を渡す。
「ですが、ある時突然、医者を辞めてしまったようなのです。私はその理由が知りたくて」
 アサは受け取った新聞を開きながら
「どうして知りたいの?興味がなくなったとか、他に大事なことができたとか、大した理由じゃないかもしれないじゃない」
「そんなはずはありません」
「どうして言い切れるの?」
 ネズミは首を軽く振ったが理由は言わない。
「それともう一つ、なぜ殺したのかを知りたいのです」
アサが新聞に目を落とすと、白衣を着た人間の女性の写真が目に入る。新聞は彼女の生まれや育ち、大学時代の成績から臨床医としての実績や手術経験、研究論文などが詳しく紹介されていた。新聞を読み進めるうちに、アサは自分の心臓の鼓動が早く強くなるのを感じる。読み終わった新聞を閉じ、前の座席に乗せていた足を下ろしながら、アサはネズミに聞き返す。
「殺した?」
「はい」
 アサが顔を上げてネズミを見ると、ネズミは赤い両目でこちらを見ていた。
「今って何年?」
「年?ああ、二一三三年ですね」
「分かった。なら残念だけど、あなたは彼女には会えないと思う」
「なぜ?」
「この新聞に数字が入ってる。確かにご活躍のようだけど、二〇八八って書いてあるよ。これ、年号じゃないの?今が二一三三年なら、五十年以上前だよ、もうとっくに亡くなってるんじゃない」
 ネズミは目を大きく開き、口に笑顔の形を作る。
「素晴らしいですね、さすがです! 彼女も非常に観察力が優れた方でしたよ、あなたと同じように」
 列車が速度を緩め始め、軋むような金属音が車内に響く。
「おや、もう少しこの話をしたかったのに、どうやら次の町に到着のようです。支度をお願いできますか」
アサは新聞を軽くたたんでネズミに渡し、靴を履き直す。ネズミは新聞を座席に置き、立ち上がって降車口まで歩き、扉の前で待つ。アサは帆布のバックパックを背負い、列車が止まるまで席で待つ。
列車が止まるとネズミは扉を開けながら、アサに聞こえるように言った。
「優れた観察力がある割に、この数字は、さっき私が書いたものだったってことにお気づきにならなかったようで」

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小説投稿サイト「エブリスタ」で連載中の「夜の案内者」の転載投稿です。
物語のつづきはエブリスタで先に見られます。

▼夜の案内者(エブリスタ)
https://estar.jp/novels/25491597/viewer?page=1


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