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「人生で大切なことは旅することで手に入れた / トルコ・ギリシャ・エーゲ海」

まだ日本円の相対的な価値が高かった90年代前半、僕はバックパックを背負って1人で世界中を旅して回った。行先は主にヨーロッパ。ユーロが導入される前の、ソビエト連邦が崩壊した直後のまだ東西冷戦の雰囲気が色濃く残るヨーロッパだ。何故ヨーロッパなのかというと、当時僕が住んでいた北アメリカはヨーロッパの文化や価値観をベースに建国されたという歴史があったから。街や通りの名前、人々のアイデンティティ、社会システムの設計思想や文化や哲学、それらのルーツがヨーロッパに起因していることが多く、自然とヨーロッパの歴史に興味を持つに至った。正直言ってカナダやアメリカの歴史(主に近代史)にはさほど興味はなかったが、これらの国を形成したヨーロッパ移民たちのルーツを知ることは、自分が住んでいる国を理解することでもあった。

そして1人旅を始めたもう一つの大きな理由は、「観光」ではなく「人々との出会い」がある。インターネットもスマホもなかった時代に唯一の情報源だった「地球の歩き方」というガイドブック。そのギリシャ編のどこかのページに記された「旅とは出会うことである」という一文に感銘を受け、実際に旅を通して様々な国の人たちと出会い、多くの事を学んだ。もしこれがパッケージツアーだったり友達とグループでリゾート旅行だったりしたら、体験できる内容と質は全く別物になっていただろう。

憧れのハワイ航路

1人旅を始めるキッカケとなったのは、19歳の冬休みに1か月ほど滞在したハワイだった。当時僕は高校を卒業してカナダの田舎町に留学していたのだが、ルームメイトが運転する車の単独事故で右膝を負傷してしまった。幸いにも打撲で済んだのだが(今でも後遺症が残る)冬休みの1か月を療養を目的に極寒で薄暗い冬のカナダから温暖なハワイへ旅することにした。ワイキキで不動産会社を経営していた知り合いの日系人コミュニティに世話になり、最終的に一泊1,500円程度のインターナショナルユースホステル(以後ユースと呼ぶ)というドミトリーに行きついた。このユースという簡易宿泊施設での体験がその後の僕の1人旅の原点となる。

Honolulu

ワイキキのユースには世界中から長期滞在の旅行者が集まっていた。そのほとんどがバックパッカーと呼ばれる大型のリュックを担いで1人もしくは2人(女性同士など)で旅する20代の若者たちだった。昼間はビーチへ出かけ、夕方には食事の用意をして夜はハッシッシ(マリファナ)を吸いながら思い思いに過ごす。朝起きると2段ベッドの上が空になっていて、午後には新しい旅行者がそこに寝床を作る。旅の途中でたまたまこの場所に泊まり、出会い、そしてまたそれぞれ違う目的地を目指してに旅立っていく。刹那的だけど一期一会のなんだかフリーダムでノマドな世界が存在していることを初めて知り、それまでの閉塞的なカナダでの寮生活から一転、急に目の前が開けて一気に世界が拡がったような気がした。新しい経験による圧倒的な視野の広がりを実感し、目先の些細な事などどうでもよくなっていく感覚を味わっていた。ユースでの体験が僕の世界を180度変えてしまったのだ。

想い出のサンフランシスコ

そして早速次の休暇(3週間ほどのスプリングブレイク)に備え、旅の計画を立てた。まずはバンクーバーのマウンテンエクイップメント(大型アウトドアショップ)でバックパックと寝袋を購入し、バンクーバーからロサンゼルスまでの片道航空券を手配した。ロサンゼルスからはグレイハウンドという長距離バスを使って北上し、サンフランシスコ、ポートランド、シアトルを経て陸路バンクーバーへ戻るという2週間ほどの1人旅。もちろん泊まるのは各都市のユースホステル。今回は初めて移動に長距離バスを使うことにチャレンジするので、各都市のダウンタウンにあるバスステーションの位置と宿泊先へのルートを頭に叩き込んだ。観光客ではなくバックパッカーという立ち位置でこれから予定する長期1人旅の予行演習も兼ねていた。

San Francisco

この旅で今でも記憶に残っているのは、サンフランシスコのユースで一緒の部屋になったドイツ人の大学生だ。ドイツ人と言えばそれまでの人生でアメリカの戦争映画に出てくるドイツ兵しか知らなかったが、初めて生身のドイツ人と接することになった。当たり前の話だが映画のドイツ兵とは違い、いたって普通の若者だった(笑)。彼もソロでアメリカを旅しており、同年代でもあったのでウマが合った。サンフランシスコの観光名所を一緒に見て回った記憶がある。

こうして西海岸縦断を1人で旅したことで、バックパッカーとしてのささやかな成功体験を得ることができた。そして今度は20歳を迎える約3ヶ月の夏休みで本格的な1人旅デビューを果たすべく、計画を練り始めることにした。目的地の候補で真っ先に思い付いたのは夏のエーゲ海。イスタンブールからパムッカレ、カッパドキアまで足を伸ばしてからのエーゲ海の島々をアイランドホッピングし、最後にアテネを目指す。名付けて「古代ギリシャの世界と夏のエーゲ海の旅」だ。早速地球の歩き方トルコ編とギリシャ編をゲットして情報を収集し計画を練ることにした。

飛んでイスタンブール

1993年6月。僕は湿度と熱気を帯びた夏の空気が漂う夜のイスタンブール空港に降り立った。ここで失敗したのは夜に到着してしまったこと。空港からの交通手段が既に終了していたのだ。とりあえず初日はユースではなく、市内の小さい安宿(日本語の名前だったが、オーナーはトルコ人で日本には一切関係なかった)に泊まる予定(事前予約なし)だったのだが、交通手段がない。どうしたもんかと考えていると、空港の職員がお金くれたら車で連れてってやるよと声をかけてきた。今考えれば相当無謀だったが、当時はとりあえず宿に辿り着く事が優先だったので、お願いすることにした。「もうここらへんでいいだろ?勘弁してくれよ!」とブーブー文句を言う職員を説き伏せてなんとか目当ての宿を発見し、1日目の寝床を確保することに成功。安堵とともに期待と不安の入り混じる初日となった。

翌日、早速イスタンブール市街地の中心部にあるユースへ移動。今はどうか知らないが、当時は1人最大1週間程度の滞在が限度だったはず。なので、みんな期限が来ると違うユースに行って1週間過ごし、また元のユースに帰ってくるというのが長期滞在者のルーティン。僕もとりあえず上限ギリギリの1週間ベッドを確保することにした。

このユースでは夕食付きのバスツアーを企画しており、値段も格安だったので参加する事に。客はユースに泊まっている世界各国からの旅行者たち。アジア系は僕と香港のカップルのみだった。夜のボスポラス海峡を見学するという内容のツアーだったが、移動中のバスの中での出し物が楽しかった。参加者が順番に各国の歌を披露させられるのだが、日本人は僕だけなので何か日本っぽい歌をということでなぜか「黒田節」を歌った。結果大ウケして、一気に参加者たちとの距離を縮めることが出来た。ここで恥ずかしがって歌わなかったり、選曲を間違えていたらスクールカーストの最下層的存在としてその後のツアーを一人でやり過ごすことになっていたかもしれない。

Istanbul
Istanbul
Somewhere in Türkiye
Somewhere in Türkiye
Somewhere in Türkiye
Somewhere in Türkiye
Troia

イスタンブールには1週間ほど滞在し、その後は長距離バスでエフェソス遺跡へ移動。どこか忘れたが途中の町(トロイアあたり)で話しかけてきた教師のおじさんが「日露戦争でロシアを破った日本は素晴らしい!日本人は友達だ!」と言ってフレンドリーに話しかけてきたことを覚えている。またある時は、バスのチケットを買ったターミナルで旅行会社のブースにバックパックとナイキACGのサンダルを預けた。バスの時間が来て荷物を受け取りに行くと、職員がサンダルを気に入って「紛失した」と嘘をついて盗もうとした。これにはさすがに頭にきて「返せ!観光客からモノを盗んで恥ずかしくないのか!?」と騒いでいたら、近くの別会社のブースのおじさんが掛け合ってくれてなんとか奪い返すことが出来た。旅行会社の人間が旅人からモノを平気で盗もうとするメンタリティを目の当たりにし、日本とはまるで別次元の宇宙が存在する事を思い知らされた。

Ephesos
Ephesos
Ephesos
Pamukkale
Pamukkale
Pamukkale

トルコの内陸部で絶対に行きたかったのがパムッカレ。石灰が沈殿して長い時間をかけて堆積し、温水を湛えている白い棚田のような景観。僕がこの場所を知ったのはマイルドセブンのCM。「マイルドセブンの白い世界」っていうキャッチコピーが爽やかでカッコよかった。実際に行ってみたら、それはもう本当に壮大で素晴らしいロケーションだった。

パムッカレ周辺のユースで出会った1人旅の日本人バックパッカーがいて、日本でアルバイトをして金が貯まったら海外を2~3か月放浪するようなライフスタイルを送っているとのこと。当時は学校を卒業したら会社に入って定年まで過ごすことが当たり前だと思っていた自分には衝撃的だった。同じ日本人でも型にはまらない生き方をしている人たちに、この旅で幾度となく出会うことになる。

そして更に内陸部、トルコの中央部あたりに位置するカッパドキアが今回のトルコでの旅のハイライトとなる。キノコのような岩が果てしなく続く荒野。ローマ帝国の迫害を逃れてこの地へ辿り着いたキリスト教徒たちが作った地下都市。その横穴式住居を利用した半洞窟ホテルに泊まり、荒野に沈みゆく太陽を観ながら食事を取った。宿泊客はまばらで、日が落ちると気温が一気に下がって辺りに静寂が訪れた。薄明りの洞窟の内部は、トルコ絨毯の上にマットレスが置いてある簡素な設えで、歴史と文化と民族が交差した古代に思いを馳せるには十分なロケーションだった様に思う。

Cappadocia
Cappadocia
Cappadocia
Cappadocia

エーゲ海に捧ぐ

トルコの旅を終え、次はいよいよギリシャへ。イズミールの港からフェリーでエーゲ海の島々を渡り歩く。ミコノス島、サントリーニ島、そしてクレタ島を経由してアテネをゴールとする計画を立てた。もちろん宿の予約はなし。上陸したらまずはユースを探してベッドを確保するのがルーティンとなる。エーゲ海で最初に上陸したミコノス島では、着いて早々に2人の日本人バックパッカーと出会い、彼らと2週間ほどミコノスの旅を共にすることになった。Kanjiさんは世界を旅しながら写真を撮ることを生業としているプロフォトグラファーで、1年以上世界中を旅していた。もう一人はKyokoさん。彼女は東京でフリーターをしながらお金が貯まると海外に出て放浪の旅をする女性だ。二人はちょっと前に旅先で知り合い、たまたまミコノスを期間限定で一緒に行動していた。そこへ僕も混ぜてもらうことになり、ユースには泊まらずに3人でリゾートキャンプ場のような場所(今で言うグランピング的な)でテント生活を始めた。

島にはレンタルバイクの店がいくつもある。人気なのは日本製のオフロードバイク。長期間借りても安いので、3人で2台借りることにした。借りる時に免許の提示など特に必要なく誰でも借りれてしまう。問題は僕が原付以外のバイクに乗ったことがなく、マニュアル操作のオフロードバイクの運転が初めてだったこと。Kanjiさんがその場で簡単なレクチャーをして、「すぐ乗れるよ!大丈夫!」と半ば強制的に乗らされる羽目に。バイク屋の兄ちゃんも「おい!オマエ本当にバイク乗ったことあるのか!?」と心配する始末。ヘルメットも被らず、今思えば危険極まりない行為だったのだが、アムロがガンダムに初めて乗った時のように結果としてこの体験が後で役に立つことになる。

こうしてテントを拠点にバイクを乗りまわして島の隅から隅まで自由に走り回った。ウィンドサーフボードを2日連続で借りて一日中誰のレクチャーも受けずにひたすらやりまくったり(最後はコツを掴んで乗れるようになる)、ピアス屋で人生で初めて耳たぶに穴を空けたりと自由でノマドでエネルギーに満ちた夏のエーゲ海を楽しんだ。今でもこのミコノスで過した数週間は自分の人生で最も光り輝いていた瞬間だったと思っている。

Mykonos
Mykonos
Mykonos
Mykonos
ミコノスで出会って数週間一緒にテントで過ごしたKanjiさんKyokoさん
Mykonos
Mykonos
Mykonos
Mykonos

楽しかったミコノスでの旅もそろそろ終盤。またどこかで会おうと再会を約束し、Kanjiさんはトルコへ。僕とKyokoさん、新しく出会った日本人バックパッカーの女子2人の合計4名でミコノスを離れ、一路サントリーニ島へ。アシニオス港から急な斜面を登ると、そこにはこれぞエーゲ海の島と言わんばかりの白と青の世界が一面に広がっていた。Kanjiさんが抜けて「遊び」や「冒険」の要素がゴッソリと抜け落ちてしまったが、今でも世界一美しいと感じるサントリーニの街並み、リゾートと古代ギリシャの世界を同時に併せ持ったこのどこまでもブルーな夏のエーゲ海に浮かぶサントリーニを体験できたことは本当に大きい。

Santorini
Santorini
Santorini
Santorini
Santorini
Santorini
Santorini
Santorini

クレタ島の夜明け

サントリーニでKyokoさん達とお別れし、再び一人となった僕はギリシャ最大の島であるクレタ島を目指す。古代ギリシャの歴史の中でもミノア文明発祥の島であり、戦時中はドイツ軍が大規模なパラシュート降下作戦を展開したことで有名だ。島の中心部イラクリオンに上陸し、1週間オフロードバイクを借りて自由に旅することにした。ミノア文明の最も有名な遺跡であるクノッソス以外は、石と荒野の乾いた大地が果てしなく広がる長閑な田舎の島である。特に目的地はなかったが、「地球の歩き方」には載っていない島の南側に敢えて行ってみるというプランを立ててみた。

Crete
Crete
Crete
Crete
Crete
Crete

案の定島の裏側には本当に何もなかったのだが、運よく安い宿は存在した。田舎のおばちゃんがやってる民宿みたいな感じ。その土地のご飯が出てきて、その土地で生きる人たちと生で会話できる。「オマエ、どこから来た?スペインか?」と言われたくらいアジア人が訪れるのは稀な世界だったと思う。島の西の端にちょっとした美しい入り江があり、そこの宿で知り合ったフランス人グループやイタリア人カップルと20歳の誕生日をお祝いしてもらったのは本当に良い思い出となった。みんな元気かな。

仲良くなったフランス人チームに合流し、クレタ島の旅を延長するつもりだったのだが、バイク屋に電話するとレンタル延長は出来ないと言われ泣く泣くイラクリオンへ帰ることに。入り江のそばにギリシャ軍の基地があり、監視塔にいる兵隊にサヨナラの敬礼をすると、敬礼で返してきた。後ろ髪を引かれながらもそのまま高速道路を数時間、ヘルメットも被らずに突っ走った。今考えると恐ろしいが、事故を起こさなくて本当に幸運だった。無事イラクリオンに到着し、バイクと引き換えに預けていたバックパックを受け取り、アテネ行きのフェリーに乗った。

そのフェリーの甲板で本を読んでいると、ギリシャ人の女子大生が声をかけてきた。「どこから来た?この本はどっちからどう読むんだ?」みたいなことを聞かれた。「日本人か。ベトナム戦争では大変だったね、同情するよ」と彼女。どうやら日本とベトナムを混同してるらしいのだが、こちらに興味を持ってくれたようだ。彼女は休暇が終わって今からアテネの自宅に帰るとのこと。良かったら家に泊まらないかと誘われた。宿が確保できるのはありがたい、そう思ってお邪魔することにした。彼女の両親や親せきが集まっておもてなししてくれた。彼女の妹やその彼氏など、若い人たちも合流したのだが、彼らと色々話していると、結局僕らと何も変わらないってことが分かった。親戚のおじさんがウザいとか、音楽は何がイケてるとか。

Athens
Athens
Athens
Athens
Athens
Athens
Athens
Athens
Athens

こうしてアテネでの滞在を終え、僕の「古代ギリシャの世界と夏のエーゲ海の旅」は終わりを迎えた。1993年6月から8月にかけて、19歳から20歳になる10代最後のタイミングでこのような旅を経験できたことは本当に幸せなことだと思っている。様々な出会いと別れがあり、多くのことを経験し学んだ。スマホやインターネットが存在しない、情報が限られた時代に自分の足で確かめ、自分の判断で進むべき道を切り開いていった、まさにそんな感覚が確かにこの旅にはあった。旅から得る体験は自分の血となり肉となってその後の僕の世界観を間違いなく変えた。孤独になることを恐れ、何も考えなくてもいい楽な選択肢を選んでいたとしたら多分、いや確実に今の僕は存在していないと確信する。

若者よ、年取ってからでは遅い。
スマホを一度置いて、旅に出よう。
旅とは出会うことであるのだから。

■エーゲ海周辺へ旅に出たくなるおススメ3選■


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