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国は地方が使うカネに基準や条件を付けて縛ってきた件 東日本大震災10年

▼地方自治体を批判する記事が2021年3月16日付の日本経済新聞1面に載った。「日本は変われたか/大震災10年」という連載記事。

国頼み、空洞化する自治 「首長が本気なら注文もっと」/日本は変われたか 大震災10年(5)〉2021年3月16日 0:00

▼東日本大震災から10年を振り返る企画。

この回では、大震災後、国が定めた5年間の「集中復興期間」で27兆円が使われたこと、しかし「復興支援金」制度が無駄遣いされてしまった現状をまとめている。適宜改行と太字。

制度の対象となる40事業は国土交通省や農林水産省など5省の縦割りで、事業の内容を地域ごとにアレンジする余地は乏しい。中央省庁が設計した政策が被災地に落とし込まれることに変わりはなかった。

岩手県大槌町は国交省の区画整理事業を使い、市街地のかさ上げ造成を進めた。外で仕事を得た住民らが町に戻ってこないと分かっても「途中で規模を縮小することはできなかった」(前町長の碇川豊氏)。

完成した造成地では今、利用の当てのない空き地が目立っている。

カネを出すのは国、政策を考えるのも国。自治体は裾余(すそあま)りや寸詰(すんづ)まりの既製服を選ばされ、おとなしく着ている。

同様の構図は、2014年から国の旗振りで始まった「地方創生」にもみられる。

国が用意した移住施策や産業振興などのメニューに合わせた事業計画を自治体がつくり、交付金を認定してもらう。「国とのパイプ」を声高にアピールする首長も目立つようになっている。〉

▼要するに、〈国は地方が使うカネに基準や条件を付けて縛ってきた〉のだが、この記事の結論は、〈国の支援を受け身で待つのか。地域の未来を開くために自ら動くのか。問われているのは地域のかじ取りを託された首長の覚悟だ〉となっている。

▼ちなみに記事の冒頭は、

〈「首長が本気で仕事をしようと思っているなら、不自由だらけの現状の中でもっと国への要望や注文が出てきてしかるべきだ」。東日本大震災の発生時に総務相を務めていた片山善博・早大教授(元鳥取県知事)はもどかしそうに語る。〉

と始まる。

▼記事の中身は〈中央省庁が設計した政策が被災地に落とし込まれることに変わりはなかった〉復興計画や、〈国は地方が使うカネに基準や条件を付けて縛ってきた〉現実で悩む地方の実状を要領よくまとめてあるのに、序論と結論は、自治体の責任を問うて締めている。

▼たとえ「制度」を変えても、「文化」が変わらなければ結局変わらない好例だ、といえるのだが、片山氏のように抜群の手腕をもつ人ならいろいろと壁を突破できるだろうが、知事全員がそんな人物ではないし、全員に片山氏のような才覚を望むのは非現実的である。

▼問題の構造は見えるのだが、この記事の中で国の責任は問われていない。むしろ国の無責任が所与の前提となっているような印象だ。記事中で〈国の支援なしに復興を実現するのは難しい〉と指摘しているにもかかわらず。

▼5年後も、10年後も、このような国と自治体との悪い関係は続く。

コロナの次のウイルスも数年後には世界を襲う可能性がある。

大地震が日本列島を襲う可能性も高い。

そうした時、国の能力不足を突破するための選択肢は、はたして首長の「覚悟」一択なのだろうか。

違和感の残る記事だった。

(2021年3月16日)

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