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ニューヨークの歩道の味は?(前編)   ――「不味」の楽園、ニューヨーク――


前回は、のけぞるほど不味かったアムステルダムのインドネシア料理の話と、なぜプロテスタントの国の料理は総じて不味いのかについて語ったが、「不味い」つながりで、今回はアメリカの、また別様の不味さについて話していこう。

ニューヨーク:ヨーロッパのシミュラークル?

ご存知のように、アメリカ合衆国建国前、北アメリカ大陸には、カトリック系のフランス人、スペイン人なども多数入植したが、しかし結局、カナダの一部(現在のケベック州)などを除き、建国に向かうマジョリティは、イギリスやオランダを筆頭とするプロテスタントとなった(”White Anglo-Saxon Protestants” 略称WASP)。私が1998年から2000年にかけて暮らしたニューヨークも元々はオランダ人の入植地「ニュー・アムステルダム」という呼称だったことは周知の通りである。

この滞在が、私にとって初めてのアメリカ滞在であった。それ以前に、7年間(1984年〜1991年)フランスで暮らした私は、滞在当初、少なくとも街並みが「ヨーロッパ」の風情を称えていないこともないこの都市に、どうしても「ヨーロッパ」を無意識にダブらさざるをえなかった。すると、出会うもののことごとくが、「ヨーロッパ」の“フェイク”に見え、食文化にしたところで、もちろん「フレンチ」、「イタリアン」から始まって、文字通り世界各国の名を冠したレストランが軒を連ねていたが、『ザガット』などを頼りにランク上位の「フレンチ」や「イタリアン」に行っても、そこそこ美味しくはあるものの、フランスのレストラン・ガイド『ゴ・エ・ミヨ』にしたらせいぜい14〜15点程度の美味しさに過ぎなかった。(ちなみに当時ニューヨーク全体で『ザガット』で三位が、築地に本店のある日本で全国チェーン展開していた某寿司店の支店であったということだけでも、この地の「美食」事情が伺えよう。)

フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールがかつて「ディズニーランドとは、《実在する》国、《実在する》アメリカのすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ」(『シミュラークルとシミュレーション』)と逆説的に喝破したように、アメリカ全体はいざ知らず、少なくとも《実在する》ニューヨークは、ヨーロッパのテーマパーク、ヨーロッパのシミュラークルにしか、私にも感じられなかった。

「不味い」ものの探求へ

しかしながら、2年間滞在する予定だった私にとって、ヨーロッパのシミュラークルの只中でこのまま生きつづけることは虚しすぎるがゆえに、ある日から突如、私は、この《実在する》ニューヨーク、アメリカの中に、ヨーロッパには絶対実在しないもの、例えば、ヤンキースの試合を見にヤンキースタジアムに行き、巨大なコークを手に、巨大なホットドッグを頬張ることにあえて満足を覚える、そうしたマインドセットに切り替えた。そうすると、ヨーロッパのシミュラークルの帷をここかしこで引き裂くようにして、「リアルなもの」が顔を覗かせるようになった。そのうちの一つが、「不味いもの」であった。

前述のように、ニューヨークで(ヨーロッパ的に)「美味しい」ものを求めようとすると虚しさが募るばかりだが、こと「不味い」ものを求めはじめると、それこそ(ヨーロッパを嘲笑うかのように)無尽蔵なのだ。

だが、アメリカ(ないしニューヨーク)の「不味さ」は、プロテスタント系ヨーロッパの「不味さ」とは別様に違う。後者は、(前回書いたように)食材自体はさして問題ないにもかかわらず(前回言及したホタテのように場合によっては十分な鮮度と旨みを持っているにもかかわらず)、それを調理する舌が、おそらくは長年の宗教的「清貧」により不感症となり、ゆえにのけぞるほど不味い料理になってしまうのに対し、前者、アメリカの「不味さ」は、同様の宗教由来の不感症と調理の不全に加えて、さらに食材自体が無味(そして場合によっては化学的に危険)であるために、逆に多少センスの良い調理を加えても、それこそ「煮ても焼いても食えない」食材が多いのだ。

私にしたところで、そうした食材を相手に料理を挑んだが、食材のあまりの「無味」加減に、自分で作っておきながら、一口以上食べられないことがままあった。確かに、外見は「ほうれん草」であり「イチゴ」であるのだが、実際口の中に入れ味わい始めても、ほうれん草やイチゴにあるはずの「味」がどこを探しても見当たらないのだ!

私は当時、マンハッタンのWest 71st ストリートの西の端に住んでいて、徒歩圏内に4、5軒スーパーがあったが、その中でも一番「まともな」Fairwayであっても、私は夕方よくその入り口で立ち尽くすことが多かった。目の前には新鮮そうな野菜や果物、それなりに豊富な肉や魚が並んでいるのだが、すでに一通り試し、その「無味」加減を味わって(?)きたので、どうしても手が伸びない。だから、買うのは決まってスコットランドやノルウェーから直輸入されたスモークサーモンか、やはりイタリアやスペインから直輸入された生ハムで、それらを代わる代わる買う羽目になる。例外的に、なぜかニューヨーク近郊で取れるのか、かなり豊かな種類の(シイタケなどに混じって)野生のキノコが並ぶ棚があり、しかも手に取る人など滅多にいないがゆえに、入荷したてらしきときは片っ端から買ってきて、ソテーにしたり、ホイル焼きにしたりして堪能した。

ニューヨークで衝撃的に不味かったもの一覧

私の、非「ヨーロッパ」的な、ゆえにアメリカ的な「不味い」ものの探求・探究は、ネタに事欠かなかった。それこそ無尽蔵にあったが、特にいまだに強烈に舌と口に刻印されているものだけでも紹介しよう。

ある日ランチに入った、家の近くの「チャイニーズ」。(メインに何を頼んだか、以下のあまりの衝撃で覚えていない。)副菜として「揚げ春巻き」が皿に載っていた。それを口に入れた瞬間、口中が拒否反応を起こすほどの、到底「食べ物」の範疇には入らない“物体”の衝撃が襲い、絶句し、呆然とした。

あるいは、やはり家の近くの「ベトナム」料理店。「フォー」をいちおう注文したはずだった。出てきたボールの中には、なにやら妙に澄んだスープにヘラヘラした風情の白い細長いものが浮遊している。これは「マズった」と直感したが、注文した都合上、恐る恐る口に入れた瞬間、「不味」の茫漠とした大海に飲み込まれ、溺れた。

私は、ハーレムにほど近いコロンビア大学に通っていたが、周りに何軒か「レストラン」があり、ことごとくヒドイ代物しかでてこないのだが(例えば、日系三世の女性がやっていた「ジャパニーズ」は、どこが和食なのかさっぱりわからないほど「無国籍」なものだった)、時々、どうしても中華が食べたい時は、正門前にある「チャイニーズ」に入ることがあった。そこに入る日本人の知人たちは、ほぼ全員、ライスと炒めたほうれん草が添えられた鶏の塩味炒めしか注文しない。理由を尋ねると、他をいくつか試したけれど、とんでもなくヒドイ代物が出てきて、これだけが唯一「食べられる」ものだからだと言う。私も試しに一度、何か麺類を頼んでみたが、やはりとんでもない代物だった。この鶏の炒め物にしたところで、食べ終わると、こんもりしたプレートに1センチほどの油が残るような代物だった。

あるいは、ホットドッグの「聖地」コニーアイランドにある「ホットドッグ早食い選手権」で有名な「ネイサンズ」。ホットドッグ好きな私は、大いなる期待を持って頬張った瞬間、やはり絶句・呆然。「紙」のようなパンに、これでもかというほどケミカルなマスタード(?)とソーセージ(?)がのさばっている…。あるいは、コロンビア大学の図書館のカフェテリアで売られていたピーナッツバターとジャムのサンドイッチ。口中全体が麻痺するほどゲキ甘で、血糖値が急激に上がるのか脳みそが痺れていく…。あるいは、サワーすぎて、体全体が酸味で浸されるほどのサワーブレッド専門店。あるいは、寄宿している女子学生もそのあまりの不味さにため息を突いていたフィラデルフィアの女子大の学食の壮絶さ。あるいは、国内線の飛行機の機内食として出た、解凍しきれていない半ばフローズンなサンドイッチ。などなど、それこそ枚挙にいとまがない。

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