良くも悪くも、誰もが当たり前に生きていけてしまえる平和な世の中で、平和を憎みたい欲求と、相反する理性

お風呂に入っている。
そんななんてない時に、
「僕は生きているんだなぁ。」
「生きてしまえているんだなぁ。」
と感慨に耽ることがある。

今の日本は平和だ。
そう感じていない人もいるんだろうが、
誰もが当たり前に生きていけているんだから、
これが平和でなくて、平和になる時など訪れまい。
世界や歴史を顧みれば、生きていけるのが当たり前であった地域、時代など僅かに限られよう。
現に、生きることに執着のない僕ですら、生きてしまえているのだから、日本は本当に平和だ。

率直に言うと、僕は平和が嫌いだ。
願わくば、もっと、死に迫られたところで生きていたかった。
きっと、こんなのないものねだりなんだろうが、それでも、
「戦争の時代を経験することが出来ていたら、」
と、想像することが少なからずある。
したなら、僕は、もっと「生きること」に対して一生懸命になれていたのだろう。
そう、妄想に逃避してしまうのが歯痒い。
だが、妄想に逃避するでもなければ、自殺願望が湧き出るのを、蓋し得ない。
それでも、尚、生きていけてしまっていることが、物凄く情けない。

平和な世界は、僕にはとてつもなく居心地が悪い。
平和な世界に、生を受けてしまったことを、憎らしく感じることがある。

自分語りは、大概ウザったらしいらしいのだが、自我をアップロードする為にも、手短に語らせてもらうことにする。
僕は、小学生の頃から、自分の存在価値を考えるよう、経験に強いられてきた。
「何故僕は生まれたのだろう?」
「何の為に僕は生きているのだろう?」
と。
内省的な問いに、幾度も仮説を立てては、自己反駁を繰り返してきた。
が、そろそろ仮説も尽き果てようとして、ここのところは、日に日にニヒリストに近付いていることを実感する。
生きる意味が見つからないと、えも言われぬ絶望が押し寄せる。

他為で死ぬことが出来たら、楽なのになぁー。
平和な所為で、そんなことは先ずない。

自為で死ぬと、兎角色々と心労を掛けようので、可能である限り早く、他為で死にたい。

死に迫られた状況であるならば、
人はレーゾンデートルなど、考えるに至らないだろう。
その日を生きることに必死になれるのが、羨ましい。
なんとしても生きてやろう、という原動力が欲しい。
自分が生きてしまえている、この状況を拒みたい。

故に、僕は、平和を憎んでしまいたい欲求を持つ。

相反して、理性が欲求を阻害する。

憲法曰く、
日本国民は恒久の平和を念願しないといけないらしい。

平和を憎むと、日本人としてのアイデンティティを希薄される。

これは被害妄想の類の、何か過剰な自意識の産物のようで、(確かに、最初はそうだったんだけど)本当は、必然的な帰結なんじゃないかと思う。

こうして、理性が平和を恨むことを阻む。

マジで、僕が平和からどれほど気分を害されてきただろうか。
それでも尚、僕は、平和を願うよ。


鬱蒼としたこんな考えを巡らしている時が、
何よりも生きている心地がして楽しい。
鬱であるのが、僕の尊厳を保証するのだ。
僕は、不幸を求めているのかもしれない。

とにかく、生きた印を残して、さっさと死ねることを切に願い、自我データをアップロードすることにしよう。

以上、失礼致しました。

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