古い文章を読んで感じたこと

九鬼周造『「いき」の構造』を読み返している。

これが初めて書籍化されたのが1930年、したがって、この論文が書かれたのはそれ以前ということになるが、その筆の怜悧には感嘆させられる。

例えば、語彙を挙げてみても、
「瀟洒」「婀娜」「爛熟頽廃」「恬淡無碍」等々、
語彙それだけでふくよかな円熟味が香り出しそうなほどの魅惑がある。

尤も、『「いき」の構造』は論文であるから、文に艶は要らない。
寧ろ、論旨の阻害となる。

したがって、これらの語彙は、文を彩ることを一切意図せず、読者に論説の理解の助けとなることを目的として用いられている。

実際、これらの語彙の指示内容は、辞書に示されるそのままの共訳的意味であり、小説等のように独自の意味を仄めかすことはない。

この『「いき」の構造』、大戦前夜のインテリ達は如何に読んだのであろう?

やはり、その内容に関心したのだろうか?

私は、その内容より文体に魅力されずにはいられない。

文章の文体と内容とは、個々別々に解せられるということはない。
勿論、理念的には両者は峻別されるはずではあるが、現実において文章に対峙する我々には、言葉と内容は同時刻に存在することしか許されない。

書く内容は常にその書き方と同体となって価値を定められるのである。

ニーチェにせよ、サルトルにせよ、何故その思想を物語の形式に包んだのか。
彼らの企図の内には、直接的に表すことによって損なわれるものの想定があったはずだ。

かように考えると、良い文章とは、その内容のみによって定められるものではなく、美しい容器=文体が契機となって決定するもののように思われる。

さて、『「いき」の構造』を今現在において読むということは、すなわち、100年近い間を隔てて筆者の意識現象を読むということである。

当然ながら、今と100年前では、その時代を通底するモードが多分に異なっている。

よって、時代に普及した語彙も異なる。
それこそ、「いき」という言葉は現代あまり耳にする言葉ではない。
他方、我々が昨今よく用いる「ヤバい」等は、100年前の人間には、やはりあまり馴染まないであろう。

裏を返せば、「いき」が多用された時代には、「いき」と形容されるべき対象が多くあり、「ヤバい」もまた然りなのだろう。
言葉が時代を象徴している。
そして、こういう言葉が象徴する潜在的意識がモードなのだろう。

ちょっと話が分岐してしまったが、要は、同じ文章を読むにしても、読者の生活する環境のモードによって、その捉えられ方、文体的・内容的価値が変容するということだ。

古い文章には想像を要するエッセンスが散らばっていて面白い。

サポートは結構です。是非ご自身の為にお使い下さい。代わりといっては何ですが、「スキ」や「フォロー」頂けると幸いです。