戯言ではなく割と真面目に哲学です

言語のやり取りで齟齬が生じる原因はそもそも言語は意志の伝達手段ではないのに相互理解が可能であると誤解しているからです。

それならば何故、殆どの人たちが言葉を意志疎通の手段だと思うのでしょうか。そして不便なく日常生活を送っているのでしょうか。

そもそも言葉が意志疎通の手段ではないなんて本当なのでしょうか。

お前の頭が悪くて理解できないのを「言語」そのものに由来することにして責任転嫁をしているだけではないのか。「言葉が悪いんじゃ」と。
その可能性はあります。
言語が伝達手段ではないことにエビデンスはありません。

さて、この人とは話が通じないと思うことがありますが、それは話が通じると思う前提があるからです。なので、その前提を外します。

会話はそれぞれが独り言を交互に言い合っているだけなのです。気をつけて欲しいのは「言い合っているだけ」の「だけ」の部分は必ず消去することです。

すると「言い合っている」を継続することで相互理解が成立していると「錯覚」することが可能に成ります。
会話は受け止める側が勝手に意味を作ります。
それを相手に返すと、受け手が変わり同じことを繰り返します。
「継続」「繰り返し」が会話の本質です。「意味」は会話の主人公ではありません。

故に継続を中断し会話がなくなると、あっと言う間に人々は険悪な関係になります。

そして多数の人は沈黙を相手の好意として受け取ることはありません。悪意で穴埋めをします。

人々は勝手に話、勝手に理解をします。
それが最期を迎えるまで続くのです。

沈黙の落とし穴は避けたいですが私はけっこうな頻度で落ちます。

この辺りの話は『探究』をヒントにしています。
「私的言語は成り立たない」の逆張りパッチワークです。
『論理哲学論考』は難しくて私には理解不能ですが敢えて一行にすると「言語の限界と認識の限界は同じ」になります。
実際の「語り得ぬものには沈黙」云々は知らないことに口出しするな。ではないです。