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「洋装30年を語る」その③「私を見に来る人が一ぱいなんです」

記者 それでは洋裁を始められた頃の思い出話をお願いしたいのですが。

山脇 杉野先生と私はほとんど一緒頃でしよう。然し、私は杉野先生と全然反対です。先生は真面目に研究されたからどんどん発展するし、私は生徒が来れば十円札に見えるんです(笑声)子供を育てる為にお金が欲しいんです。

記者 月謝は十円でしたか。

杉野 私も十円です。最初から十円で何年たつても十円。

山脇 結局私は離婚のあとで気がくしやくしやしている、すごく不真面目なんです。

山脇敏子氏(昭和30年)

 ネットで「山脇敏子」と検索すると、「洋画家津田青楓の元妻」というふうに書かれていることがあります。津田青楓は夏目漱石と親交があり、漱石の『道草』『明暗』の装丁も手がけました。
 この『明暗』に津田という男が出てきますが、山脇敏子氏はその妻「延子」のモデルとされています。
 明治40年に20歳で津田と結婚した敏子は、初めのうちは自身も画家を志していました。しかし1923(大正12)年、大震災の年にフランスへ渡ったことが、大きな転機をもたらします。
 「婦人の副業の視察」のかたわら「遊び半分に洋裁や手芸を習って」いた敏子。しかしそのあいだに、日本では夫に愛人ができていたのです。敏子は離婚し、生きるために今度は本気で洋裁を学びます。

山脇 結局私は離婚のあとで気がくしやくしやしている、すごく不真面目なんです。その頃のことを言われると穴にでも入りたくなります。それですぐ駄目になりました。

杉野 その点私の方は仕事に集中できました。家のことは構わないで。 

山脇 私の方も生徒が百何十人いるんですから大事にしてちやんと教えて行けばいいんですが、生徒も皆お洒落ばかりして、学校へ来てランデブーの電話ばかりかけている。

田中 あの頃は又今とは違いますから。

山脇 ですから杉野先生は隆々とやつていらつしやる、私は小さくなつてしまつた。

杉野 先生は途中で何年かやめていなすつたから余計損をしていらつしやる。又のその間文化で手芸だけ教えていられたので手芸の先生とまちがえられることがあるでしよう。

山脇氏監修のラジオテキスト「服飾手藝」(昭和26年)

山脇 そうなんです。文化に居る頃月給は八十円で自動車代が三百二十円、結局何で食べていたかと云えば、洋行する人の洋服を作つていました。一ヶ月に二人か三人の洋服を自由丘の私の家で製作していました。その頃は生活の為に一生懸命やつていたんです。

田中 私なども今から考えればそう思います。もつと勉強すればよかつたと。

杉野 誰でも同じですね。私も独りでフランスへ渡つたときは結局今迄の勉強が足らないし、生徒はふえるし、もつともつと勉強しなければと責任を感じて出かけたわけです。

田中 責任を感じますね。私は最初昭和四年から七年まで行つていたんですが主人と一緒ですつかり遊んでしまいました。二度目は鐘紡でお金を出して頂いて行つたんですが、この時はとてもくたびれてしまいました。よそでお金を出して頂いたらちやんと勉強して来なければならない。でも今から考えれば鐘紡の考え方は随分新しかつたと思います。津田社長はとても気の大きい方で、勇気づけられて飛び出したのです。

記者 田中先生鐘紡のデザイナーにおなりになつたのはお幾つですか。

田中 昭和七年で満二十五才でした。勿論デザイナーなんて世間で認めていたかどうかわかりませんが。

記者 その頃デザイナーは他にはなかつたのでしよう。

田中 私がしていましたのは無料裁断です。

杉野 方々の生地屋さんで無料裁断というのが流行りまして私なんかも学生をつれて行つて何度もやりました。

田中 あの頃1ヤール三十銭ですから、三ヤール九十銭位のお買物にたゞで裁断して差し上げた。型も「お任せしておきます」と置いていらつしやる。それから棚卸というのがあるのです。何ヤール切つたからあと何ヤール残つている筈だというのを全部月末に出すのですが、これが必ず足りなくなつて計算が合わない。その頃私の月給は七十円でした。その中から足りない分を出すのが大変なんです。又喫茶店へ行つてお茶を飲むので月給日は反つてこちらからお払いしなければならないような始末なんです。それでも毎日楽しく、アメリカから買つてきた真赤なエナメルのスーツケースに一ぱい九十銭の生地を入れて帰つて家で裁断しました。主人が「毎晩何をしているのだ」と云うんです。それから新しい生地が出来るとお人形に着せる。ところが鐘紡にはその頃ウールが全然ないので冬になると着せるものがなくて困りました。仕方なしにプリントの洋服生地で和服を拵えて着せた。それがニューキモノの初めなんです。

記者 その頃洋裁を習う生徒さんはどういう階級の方でしたか。

杉野 いゝお家の方ばかり、久原さんとか安田善次郎さんのお嬢さんとか贅沢な方々でした。その頃パーマネントの初めでしたが、私共より生徒さんの方が先で、私はあとからついて行きました。

山脇 私は今のヘップバーンスタイルみたいに切っていた。山野さんやメイ・牛山さんがたゞでいゝからかけさせてくれと言つたものです。

田中 後を刈上げみたいにするのでしよう。私もやつてました。後から見ると男の子みたいで、あれで立つていると店員さんと間違えられて、あれをとつてくれなど、お客さんに言われ、高い所の生地を梯子をかけておろしたりしたものです。

山脇 田中先生、そんなことをなすつたんですか。初めからツンとなさつてたような…。

田中 どなたもそう仰言る。私が無料裁断したなどと信じてくれない。
 あの頃仮縫室がなくて困りました。武藤さんの奥さんに「仮縫室がなかつたら洋裁は出来ませんから」とお願いしてお屏風に輪をつけて中に鏡を据えつけていらない時はたゝむように作つて頂いたんです。処がすぐ邪魔物扱いされて、こんな汚ないものといつて物置へ入れられてしまうんです。すると又仮縫の方がおいでになる、又頼んで出してもらつたりまるで喧嘩腰でした。それを出す間がなくて筋向かいの病院のお召替する部屋へお連れして仮縫をさして頂いたりしたこともあります。解つていただくまでには相当の時間がかゝりました。又私は無料裁断で阪急に立つていたこともあるんですよ。

山脇 まあ、お気の毒ですね。

杉野 丁度無料裁断が盛んになつた頃だつたからでしよう。

田中 テーブルの前で椅子に腰かけられない。椅子にかけるとお客さんが反つて悠悠としてしまうからいけないというのです。

山脇 ずい分苦労なさいましたね。私は京都に駒鳥というのがあつたでしよう。あそこに居たことがありますが、たゞ行つていればいいんです。私を見に来る人が一ぱいなんです。それで「これならあなたに似合います」というようなことを言つていればいゝんです。勿論職人を一人連れて行つてその方に縫わせたり、何ヤール切れという指図はしました。

 山脇先生はまるで芸能人のような存在だったようですね。
 座談会はまだこのあと1ページ以上続きますが、おもに流行の移り変わりが話題になります。それにしても『○○編物全集』という本の記事なのに、ここまで編物の話はまったく出てきません。記者もちょっとマズイと思ったのか、最後にこんな質問をします。

記者 セーターは外国でもずつと以前からですか。

田中 ヨーロッパではずい分昔から盛でしたね、たゞ人前には着ませんでした。今は刺繍したりしてカクテル・ドレスにまで着てますけれど。

杉野 日本人にはほんとうによいと思います。私たちでも一生懸命働かねばならぬ時はセーターです。

田中 気楽で暖かいし、汚れも目立たないし、日本人にはぜひおすゝめしたいものです。

記者 それではいろいろとありがとうございました。(おわり)

 洋裁であれ編物であれ、とにかく熱気を感じさせる昭和30年の本(正確には雑誌付録)なのでした。










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