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カミングアウトとアイデンティティとLOVE THE COMLEXITY

2回目の投稿。またまたまじめでパーソナルな話題になってしまいそうだが、せっかくなので、引き続きLGBTQ+関連のお話で書いてみようと思う。


人によって程度の差はあれ、われわれLGBTQ+の人間にとって、カミングアウトっていうのは常に意識の中にある問題だ。「カミングアウト」という言葉を知らなくても、自身のセクシュアリティが「周りとはちょっと違うかも…」と自覚した瞬間から、これはどこまでつまびらかにしたらよいのか、誰に言うべき/言わないべきなのか、言うべきでない相手にはどうふるまうのが正解か…などと、いろいろなことを意識せざるをなくなる。伝統的な比喩を使うなら、自身の「クローゼット」からどこまで出るべきか、あるいは誰に対してその「クローゼット」を開けるべきかという問題が、人との出会いの数だけ頭の中に生じるのである。

カミングアウトしない方が楽?

これはけっこう面倒くさい。ゲイである私はもともと人によって態度を変えるのが苦手なのもあり、10代のころは、一律に誰に対してもカミングアウトはしなかったし、付き合いのために男同士のエロ話になんとなく参加することはあっても、周囲の興味の対象が自身の「性」に向くことはできるだけ避けて人とコミュニケーションをとっていたと思う。一時的には、圧倒的にその方が楽だったからだ(もちろんこれを楽と感じることができた理由として、私がシスジェンダーの男性だから、という点は大きいだろう)。

そもそも、少なくとも私の10代のころの男友達の中では、例えばエロ話の第一の目的は男同士で楽しく盛り上がることであり、友達ひとりひとりの性的指向がほんとはどんなものなのかについて、それほど問題にはなりにくかった。大事なのは「女性を対象としたエロ話にいかにノリよくついてこれるか」であって、それをある程度クリアできる器用さがあれば、なんとなくうまくやれちゃったりする。もちろん、あくまで私の10代のころのケースなので一般化はできないが、少なくとも私と同世代(現在30歳前後)の男性にとっては、あの頃はそうだったかも…と思う人も少なくないのではないだろうか。

その後、京都で大学生をしていた20歳のころ、1度だけ電話で、高校の頃の友達に「好きな男の子がいる」と言ったことがある。それまでの関係からその子のことは信頼していたが、やっぱりかなり緊張したのを覚えている。その友達はとても真剣に私の話を聞いてくれて、一時的にではあったが、自分の気持ちを落ち着けることができた。

ただ、その時の告白はカミングアウトというよりも恋愛相談に近く、私がゲイである自分を引き受けるという結果にはつながらなかった。というより、当時は「ゲイ」という言葉が自分にあてはまるという感覚自体が不思議となかったような気がする(あんなにも男の子とセックスしたかったのに…)。

その後は結局、20代前半ごろまではほとんど誰にも自分のセクシュアリティを明かすことはなかったし、成り行きで女性と付き合ってしまったりと、むしろストレートを積極的に演じていた。

アイデンティティは、内と外とで作られる

そんなこんなで、私は20代前半までゲイであることをひた隠しにして生きてきて、表面上はそれでうまくやれてしまっていた(そのせいで自業自得ながらそのあといろいろ苦労することになるが、今回は関係ないので言及しない)。

また、20代後半からは積極的にストレートのふりをすることはなくなったが、圧倒的多数の人に対しては、相変わらず、自分のセクシュアリティをあえて明かすようなこともない。なんとなくの反応から「ああ、ノンケだと思われているだろうな」という場面も多々あったが、それをあえて否定することはなかった(というか、それはかなりリスキーだ)。そして30代になり、「ほんとはゲイだ」という自覚と、結果的にであれ周囲から「ノンケにも思われえてきた自分」という自己像の両方が、絡み合いながら一つの「アイデンティティ」として板についてきてしまったな、という感じさえするのだ。

このあり方が正しいかどうかはわからない。もっと若い頃に、色んな出会いを通じて、しかるべき人にはしかるべきタイミングでカミングアウトして自分のセクシュアリティにちゃんと向き合っていれば、今頃もっと安定した自己を形成できていたのかなという気もする。これは、自身の「内」→「外」へのはたらきかけによって、自分のアイデンティティが形成されていくという考え方だ。多くのLGBTQ+の人々にとって、そのステップが順調に踏めることはどんなにすばらしいことだろう。

ただその一方で、アイデンティティには少なからず「外」→「内」の作用が影響する。人はどうしたって、他者のまなざしを通じて自己を見つめてしまう。差別を経験して否定的な自己を背負ってしまうLGBTQ+の人は多い。私自身、学生時代、信頼していたコミュニティの中であからさまな同性愛嫌悪を聞いてしまった経験がしばしばあり、自身のセクシュアリティを否定的に抑圧してしまうと同時に、そもそも「カミングアウトなんか絶対にできない」という気持ちになったことを記憶している。

また、特に私のようなシスジェンダーのゲイ男性の場合は、現状、ゲイであるとバレさえしなければ経済的・社会的に比較的安定した生活を送れる可能性が高いというのもあり、程度の差はあれ「『ノンケ』としての自分」を併せ持っている人が少なくないのではないのだろうか。この「『ノンケ』としての自分」は、他者からストレートと思われ、それによって何とかうまくやれた、あるいはむしろ成功したというような経験を通じて、少なくとも生きるための対外的な「仮面」として定着しうることは容易に想像できる。私自身、そのような経験があるし、知り合いのゲイにもそれを実践している人はちらほらいる。

だが、この「『ノンケ』としての自分」は、次第にゲイとしての自身の「内」にまで干渉しうるものではないだろうか。ゲイとしての自分を秘めながらも社会的にはストレートを演じるとき、「外」での実践を通じて、「『ノンケ』にもなりえる自分」が自分の「内」にパフォーマティブに形成されていく。ゲイとしての自分は揺らがないものの、他人とのふとした会話などを通じて、なんか「『ノンケ』みたいな」自分もいることに時々気づいたりするのだ。そしてこの「『ノンケ』にもなりえる自分」というのは、確実に「ゲイ」だからこそつくられうるものである。カミングアウトをあえてしないこと、そして他者からのまなざしに身を任せることもまた、カミングアウトの結果とは別の形で、ゲイ・アイデンティティの一つの大きなあり方を形づくっているように思えてならない時がある。

私の場合、これまでの人生を経て、「ノンケにも思われえてきた自分」が自身の「内」にまで居ついている。そしていまや、ゲイとしての自意識と背中合わせでもたれあっている、という感覚がある。一方が大きく体をそらすと、他方は屈んで小さくなる。だが、どちらも今のところは決していなくならない。両者の関係は拮抗しつつも、もはや安定している。そしてそうでありながらも、やはり私は確実にゲイなのである。

LOVE THE COMPLEXITY

他者から見た「私」もまた、確実に私の一部を形成している。積極的なカミングアウトを避けてきた結果としての、ひとつのアイデンティティが私の中にも形成されている。全然完璧じゃないなと、落ち込むことも多い。こんな自分もまた、とりあえずは愛するしかないのだろう。

ただ、できることなら、もう少しだけ、もうちょっと多くの人に私のクローゼットを開けていきたい。決して理想的なゲイ人生ではなかったが、それまでの複雑な自分を愛しながらも、少しずつ変わっていきたいな、と思う。





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