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幼稚園から客引きまで暮らしの知恵

 年度が替わる時期はいろいろございます。入学があり、卒業があり、進級がある。入社も退社も移動もある。本当にいろいろあります。

 先日、私が道を歩いていますと、幼稚園の門の隣にある掲示板に、可愛らしい動物のイラストと共にこんな文言が書かれていました。「おめでとう」。これが気になったんです。

 何で違和感があったのか、すぐに分かりました。何が「おめでとう」なのか全然分からないんです。祝っているのは理解できるんですが、誰の何を祝っているのかが分からない、そんなほんのりとした不安が違和感となって私の心をつまんでいるんです。

 そんな違和感をひとりで抱え込む気にはなれず、友人に「幼稚園の門に『おめでとう』とだけ書かれてたけど、あれは何なんだろうな」と尋ねてみました。すると友人はすぐに答えてくれました。

「あれはいろいろ兼ねてんだよ。『卒業おめでとう』であり『進級おめでとう』であり『入学おめでとう』なんだよ。いちいち貼り替えていたら面倒だろ? 紙の節約にもなる」

 暮らしの知恵とでも言うのでしょうか。確かに、卒業から入学に貼り替える作業は面倒でしょうし、進級と入学は往々にして入り混じる。祝福が混沌とする時期には「おめでとう」だけ貼り出しておけば少なくとも間違いがない。だから「おめでとう」というわけです。

 友人のこの仮説が事実かどうかはともかく、納得はしました。確かに、「おめでとう」とだけ言って置けば、多少は首を傾げる人もいるでしょうが、祝福されて嫌がる人は滅多にいません。新入生が「卒業おめでとう」を見て微妙な気持ちになったりするような事態にはならない。間違えるリスクが少ないわけです。

 そこで思い出した出来事があるんです。以前の職場で、部長と課長と私で都内の取引先へうかがい、あれこれ打ち合わせをしたんです。取引先を出た時は既に夜も更けてきました。そこで、部長がこう言いました。

「近いから六本木で飲むか」

 もちろん、課長も私も断りませんで、早速、六本木で部長が好きそうなお店を探すことになりました。すると、そこへ黒人の男性が部長に声をかけました。飲みに行くならうちの店はどうだと言うんです。

 3人の中で最も立場が上でお金を持っている部長に声をかける嗅覚はさすがだと思いましたが、当時は既にヤバい客引きが問題になっておりまして、部長としても変なお店で飲むのは避けたかったのでしょう。優しく、しかしキッパリと断って立ち去ろうとしたのですが、そんな部長の背中に黒人男性は悲しそうな声でこう叫びました。

「そんなこと言わないで飲んでってよ兄貴」

 黒人男性はがっしりした体格で、縦も横も部長よりデカく、見た目はどう考えても彼のほうが兄貴なんです。

 その後も、いろんな客引きに声をかけられた部長ですが、みんな断られると「頼むよ、兄貴」みたいに、部長を兄貴扱いするんです。少なくとも当時の六本木にいた客引きの間では、流行りの言い回しのようです。では、なぜ流行ったんでしょうか。

 適当な予想しかできなくて恐縮ですが、こちらも理由は恐らく「間違いが少ない」からだと思います。この手の客引きの典型パターンとして「社長」と声をかけることがあったようです。でも、それだと「どうせ俺は社長になれてねえよ」とムッとしてしまう人がいるかもしれない。会長なのに社長と呼んでしまい腹を立てられてしまうかもしれない。「兄貴」ならば、そのような失敗はありません。「どうせ俺は弟だよ」なんてムッとする人はいないでしょう。実の兄弟でなくとも「兄貴」と呼ぶ習慣は広く浸透していますから、言葉遣いとしても正しいと言える。

 幼稚園から客引きまで、いろんなところに知恵は根付いています。

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