人間であるならば

1999年の「ラビナス」という映画を最近観た。




自分の人生に絶望していた人間が、人肉を喰らって、相手の魂を得る。

男は、同じく人肉を喰って生き残った男に向かって言う。
自分はこんなに生気に満ちて、人生が幸せになったのに、何故きみは、そんなにも憂いているんだ。

男がそれに答える。
「罪深いからだ。」

すごく素晴らしい映画だったよ。

色々と、深く考えさせられている。

僕は今朝、この話を、訪問看護師の女性に話したんだ。

それまで明るかった彼女の表情が強張っていることが僕には良くわかった。

こういった話を面と向かって話すのはとても苦しいのは、僕がヴィーガンだからなんだ。

でも、信頼している彼女に僕は自分の感動を素直に伝えたかった。

本当は、罪深いと感じながらも、男が人肉食を続けてきたということを、だれもが感じ取ることができるのではないか。

それが、「人間」というものだからだ。

「罪深い」と言った男は人間の肉と動物の肉を分けなかった。

”それ”を口にするのは、「最後の手段だ。」と言った。

つまり、飢えて死ぬようなことがない限り、口にはすまい。と男は言った。

これは感覚的なものである。人間として、自然なことである。

しかし我々は一つの問いに苦しむ。

罪深さを押し殺して人肉を食べ続ける者と、人肉のその恍惚な味を知り、渇きながらも食べることをしない者の違いが、一体、何であるのか。

僕は真に死の手前で、飢え渇いたとき、みずから動物を殺して得る死体と、人間の既に殺された死体、どちらかしか口にできない選択肢を出されたとき、人間の死体を喰って生きたい。

そして動物を殺してその死体を喰って生き延びた者に、問い掛けられたとき、僕はこう答えるだろう。

「それは罪深いからだ。」

僕は死ぬまでの間、人間の屍肉を喰らって生きた者としての絶望のなか、生きた心地はしないだろう。

だが、同時に安心するだろう。自分の選択は、間違っていなかったと。

この感覚が、だれのなかにも存在している。

だれのなかにも、かならずや、おとずれる。

「人間であるならば。」




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