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キリスト異聞 -その復活と昇天の真実- ウモ星人によるナザレのイエスの解説

#OOMO
#UMMO


書簡D792からの抜粋

新約聖書を初めて読んだ後に感じた、ウモのUMMOWOA(救世主)とイエスの類似性は印象的でした。

しかし、歴史的、社会的な要素にそぐわないものがありました。
これらの書物の文脈ではイエスの生涯が矛盾と歴史の間違いに満ちているように思われました。
一方、同時代の限られた歴史家たちの中から、ガリラヤのイエスの生きた頃についての記述を見つけることは不可能でした。

私たちはまた、歴史家ヨセフスによるキリストに関する短い引用が、同じ狂信的キリスト教徒によって後の写本に大胆に挿入されたものであることをすぐに発見しました。
ヨセフスはこのユダヤ人を無視したか、軽蔑していました。

私の三人の兄弟、YUIXII 48の息子OAROO 4、AIM 368の娘YUU 1、ADAA 65の娘ADAA 66 f.は、イスラエルとエジプト、そしてヨルダンに行き、情報を集めました。
UWOOLOOの技術を使って、彼らは金属製の巻物や石や粘土に刻まれた碑文など、非常に重要な文書を発見し、発掘することができました。これらの文書を、あなた方が集めた考古学情報と合わせて、あなた方の歴史におけるこの魅力的な時代の一部を再構築することができました。
OYAGAA(地球)から持ち出された考古学文書は、UMMOに保管されています。
私たちは、あなた方の文化が将来、進化した段階でOYAGAAにそれらを返却する予定です。


家族

イエスはガリラヤ(ベツレヘムではなく、ナザレの町から十二キロほど離れたところ)で、あなた方キリスト教徒が「元年(一年ではなく、ゼロ年)」と呼ぶ時代の八年目に生まれました。
イエスの両親は遊牧民で、イエスの生家は質素なテントでした(この野営地の正確な場所を特定することはできませんでした)。
イエスが生まれた時、二人の兄と一人の姉がいました。
その後、もう一人の弟が生まれました。

この時点から、遺言の後の記述は重大な誤りと後世に追加された偽の歴史に満ちているように見えるのです。
このような背景の中で、時にはある種の歴史的な厳密さにおいて、イエスの潜在意識によって指示されたイエスの教義は、多少歪曲されてはいるものの、際立っています。


ヨハネの弟子

[註14] (略)イエスの実際の社会生活は、このOEMMIWOA ホモ・デウスが、ナザレ近郊の羊飼いたちと連れ立って、洗礼者ヨハネに従うエッセネ派の一団に近づいたときから始まります。
イエスはこの指導者の言葉に熱心に耳を傾けます。
彼の演説の多くは、思想的にイエスの倫理観に近いものでした(後略)。

[註16](略)そのころ農民、羊飼い、職人、罪人たちの間ではヘロデの子孫のアンティパスについて悪い噂話が流れていました。
アンティパスは血のつながった姪と結婚することを決めていました。
非常に純潔主義なモーセの律法は、この出来事を近親相姦であり、忌まわしく、許されないこととみなしました。
洗礼者ヨハネは聴衆に、エホバに呪われた階層に対する反乱部隊を組織し、彼らを刺殺するために水で体を清めるように勧めました。

ヨハネの最初の弟子のひとりがイエスでした。
イエスは師の説く純粋な思想に魅了され、純粋な生活への回帰とモーセの律法のより忠実な解釈を促しました。

イエスはヨハネよりもはるかに聡明で、強力な説得力を持っていました。
師匠に従う者たちの多くは、この若い右腕に注目していました。
ヨハネがヘロデや他のユダヤ人指導者たちの暗殺を説き始めたとき、イエスはヨハネに公然と反対しました。
ヨハネはこれに反発し、彼を仲間から追放したのです。


救世主

[註14]イエスは憤りに駆られることはありませんでした。
それどころか、洗礼者を懐かしみ、ガリラヤを旅して弟子たちを募りました。
弟子たちは密かにイエスの中に、神から油を注がれた将来のユダヤの君主を見たのです。

イエスはサンヘドリンのメンバーを惹きつけました。
彼らは賢く、権力があり、金持ちでした。
彼らは、イエスのメッセージの倫理的、思想的な内容よりも、この新しい主の偉大な暗示の力とその雄弁さに惹かれたのです。
そのうちの一人、ヨナンはまた、サンへドリンに打撃を与え、大祭司を排除し、おそらく(大祭司の代わりに)彼の主を宣言することを計画していました。
OYAAGAAWOA 地球の救世主は、おそらくそのような陰謀には気づいていなかったでしょう。
しかし、私の兄弟が入手した文書の中には、この陰謀に加担した弟子たちを叱責し、厳しく戒めることを示唆する文章が含まれていました。

しかし、イエスが救世主であり、将来ユダヤの王として戴冠される人物であるという噂は、幹部たちを動揺させました。
弟子たちの間で陰謀が進行中だという知らせは、彼らを完全に警戒させました。
イエスの敵は、彼がエホバに対して魔術を行い、偽の偶像を崇拝し、既成の権力に陰謀を企て、聖典(旧約聖書)の解釈を混ぜて救世主であると自称する詐欺師だと非難しました。

ヨシュア(ガリラヤではこう呼ばれます)はすでに指名手配され、彼を処刑するタイミングが決まりました。
パレスチナの地で、既存の体制に反対する宗教的な民衆運動を率いた人物の中で、ヨシュア(イエス)は最も危険な人物だったのです。


ポンテオ・ピラトとサンヘドリン

[註14] 当時、ポンテオ・ピラトは、遠く離れたローマ帝国のユダヤ州を憎み、労働者階級に不穏な空気が湧き起こっているという知らせを受けたティベリウス公使ルキウス・エリアス・セジャンの陰謀によって、ローマからユダヤの総督に任命されていました。
ルキウスにとってピラトは、確実に鉄の規律を課すことができる存在でした。

ポンテオ・ピラトはユダヤに到着し、カイサリアへの居住を放棄しました。軍団はエルサレムに移され、ピラト自身も聖なる都に居を構えました。

イエスにエルサレムでの布教を勧めたのは、同じ弟子たちでした。
おそらく、憎きローマに対抗して町の人々を奮い立たせようという密かな期待があったのでしょう。
この時点で、主と最も乱暴な者との緊迫した関係が続いていました。
ティベリウス帝の肖像が浮き彫りにされたメダルを持つ軍団がエルサレムの狭い通りに入ってくると、エルサレムの気勢は非常に高まりました。
ユダヤ人たちは、モーセの律法で禁じられている図像表現を嫌悪していたのです。
彼らは屋根の上から兵士たちに石を投げつけ、兵士たちは反乱部隊を残忍に弾圧しました。

サンヘドリンは懸念していました。
彼らの内の何人かはイエスと一緒にいたことがあるのです。
スパイは、もしイエスが首都の原住民に演説し続ければ、反乱の危険があることをポンテオ・ピラトに知らせました。

イエスを投獄しようとする高官たちの度重なる企みを避けるために、イエスの弟子たちの多くは部隊を編成しました。
イエスは、その霊的な演説において、聖なる[神聖にして非凡な]雰囲気の中で自らを表現されたので、当局は、このような状況でイエスが投獄された場合、深刻な混乱が起こることを恐れました。


ユダ

[註14] ユダの伝説には実際の根拠があります。
ローマ人はイエスの弟子たちの中に工作員を送り込み、師匠の言葉を伝えさせていました。
イエスを捕らえるのに最適な時期を教えたのは、この工作員たちでした。

イスカリオテのユダ(彼の名前は正確です)は、謙虚な一般市民であり、サンヘドリンの階層を含むイエスの裕福な弟子たちとは対立していました。
[中略、ユダは]ペテロと他の五人の弟子たちと同様に、最も精力的な補佐役の一人でしたが、ペテロ達とは異なっていました。
当時の書物にはユダは悪事を働いていないように読み取れるだけでなく、ユダとその従者たちの多くは、イエスの敵であった群衆とユダヤ教上層部に対してエルサレムの街頭で反乱を起こし、一方、ペテロを含むイエスの他の弟子たちは逃げて身を隠しました。

イエスと従者たちがエルサレムに入ったとき、イエスの一行はゲッセマネの園に宿営しました。
イエスが捕らえられた晩、イエスは最後の晩餐が行われた家にはいませんでした。
ゲッセマネの園で祈るイエスの伝説が生まれるまで、その間に何が起こったかについての歴代の証言は長年にわたって混ざり合い、歪曲されてきたのです。

ユダの天幕に使者が主の逮捕の知らせを持ってやって来ました。
ユダは部隊に演説し、街の路地に侵入し始めますが、その間にイエスは残忍な拷問を受けていたのです。
ユダは捕らえられ、殴られ、絞首刑に処されました。他の副官たちは密かに首都を放棄しました。


捕縛

[註14]後に新約聖書の記述に付け加えられたゲッセマネの園でのエピソードは、歴史的根拠が少しもないように思われます。
また、この捕縛の状況についても、私たちの手元にある文献とは一致しません。
彼の多くの従者の一人、ヨラムという人物が書いた最も信頼性の高い文章によれば、主がサンヘドリンのメンバーの一人、彼の弟子の一人(ザカルという名前、あるいは評議員の息子だったかもしれません)の家で、男女十八人の弟子たちに囲まれていたと記述されています。

晩餐会の直後、イエスの裏切り者である工作員から得た情報によって派遣されたローマからの軍団が、イエスを拘束[逮捕]しようとしました。

ザカルはイエスに同行しました。
ユダヤの宗教当局に厳命が下されました。
ザカルと他のサンヘドリン評議員たちは、仲間たちと激しく言い争いました。
評議会の分裂は、神殿を運営する宗教的権威を深刻に損なう恐れがありました。
これこそが、ポンテオ・ピラトが望んだユダヤ人を分裂させるための戦略だったのです。
大祭司はその危険を予見し、被告人をローマ当局に引き渡すよう命じました。
その存在そのものがユダヤ教の脆弱な組織を揺るがす恐れがある人物を排除するためです。

ピラトは、エルサレムの人々の前でイエスを辱め、彼が神から遣わされたメシアではないことを示そうとしました。
彼はまずイエスを去勢し、傷口を焼灼したのです。
ローマ軍は死刑囚の拷問を担当しました。彼らはイエスに女装させ、偽のベールで性器の傷を覆い、その体を民衆に見せました。
殴られ続けて疲れ果て、ほとんど意識のないこの男を暴徒たちは残酷にも笑いました。
誰かが彼の頭に鋭い棘のついた枝編み細工の筒をかぶせ、彼を「王」として戴冠させました。
酷いショック状態にある身体をもてあそぶのに飽きると、彼を十字架に架けることにしました。


ゴルゴタ

[注14]イエスはゴルゴタに連行されましたが、一緒に連れて行かれた死刑囚は二人ではなく、実際には五人でした。
イエスはその日、六人目の犠牲となるはずだったのです。
一方、サンヘドリンのメンバーは裏で動いていました。
彼らは死刑囚の処刑を担当するローマ軍将校に賄賂を贈りました。
彼らは主の弟子で、権力と影響力を持っていたのです。
その夜、見張りをしていた二人の軍人は、三人の優秀な弟子と二人の女性を通しました。
彼らは瀕死の状態にあったイエスの身体を密かに回収しました。
このYIEE女性たちの身元は特定できませんでした。
地球のOYAAGAAWOA救世主の母親がその日まだ生きていたかどうか、そして彼女もまた主の奪還を手伝った女性の一人であったかどうか、私たちにはまだ分かりません。
十字架刑の際にマリアが介入したという神話的な話は、後世の書物で付け加えられました。
それは単純な作り話かもしれませんが、多かれ少なかれ歪曲された口伝に基づいていたことを忘れてはいけないのです。


生きていたイエス

[註14] 回収された身体が生きていたという知らせは、他の弟子たちには秘密にしていました。
サンヘドリンの有力者たちは、彼らの中にスパイがいることを知っていたので、サンヘドリンの融通の利かない仲間や預言者の敵、例えば自分が嘲笑されたと感じてイエスをどこまでも探し求める総執政官ポンテオ・ピラトのような反応を恐れていました。

弟子たちは、更なる迫害を避けるためにイエスの死を公表し、ほとんど生気のないイエスの身体を取り戻すことに成功しました。
弟子たちは傷の手当てをし、回復した宗教指導者は教義活動を再開しました。

その直後、唖然とする弟子たちの前でASNEEIIBIAEDOO(失踪)が起こりました。
後にこの出来事の説明は歪曲され、「天国への昇天」と解釈されました。
主の神性を確信している狂信的な人間には、この現象はそれほど驚くべきことではなかったようです。

私たちは、トリノに保存されている聖骸布がかつてイエスの遺体を包んでいたことを証明しました。
この歴史的遺物についてさらに深く研究することをお勧めします。
気相写真の理論は、イエスの傷を和らげるために治療にあたった人々が、イエスの体に植物性治療物質を塗布し、それが布に含浸されたというもので、この像の痕跡を説明するものです。
何人かのあなたの兄弟が提唱している謎の放射線に関する仮説は、まったく馬鹿げており、非科学的です。
このチュニックは、ガリラヤの巨匠の「奇跡的な」失踪を目撃したイスマヒという農民によって保管されていました。

重要なのは、ウモのUMMOWOA救世主の話とは異なり、彼の「失踪」という驚異的な出来事を目撃した人々の数が膨大であったということです。
私たちが入手した資料によれば、千二百人から千五百人いた可能性があります。
たとえ警察の調査によって現象が再現されたとしても、少数の生物学者によって当初に語られた内容は、その話を聞いた人々によって精神病理学的なものと評されました。
しかし、ここでは何十人もの羊飼い、農民、漁師が、高揚した狂信に身を投じ、神秘的な熱意をもって自分の目で見たことを語ったのです。


十二使徒

[注14] 弟子の数が十二人に減ったという伝説は、すでに私たちが解明しました。
私の兄弟たちは、イエスに従う弟子がそのような少数だとする説と、そのような少数のグループがサンヘドリンとローマ人側にこれほどの恐怖を引き起こしたという事実との間の矛盾に驚いていました。
私たちが発見した考古学的資料は、この疑問に対して充分な光を当てています。
この神話がさらに発展し、十二人の弟子たちがギリシア人キリスト教徒と対抗してエルサレム宗派を結成しました。
彼らは傲慢にもイエスによって特別に選ばれたと主張しました。
現実として、信奉者たちの大きなグループの中で、主によって表明された思想の解釈の違いから生じる対立は非常に深刻なものでした。
十字架刑とイエスの死に関する偽の知らせによって四つのグループに分裂し、そのうちの一つはイエスが部隊を組織するために選んだ七人の小指導者のうちの三人、ペテロ、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネが率いていました。
エルサレム・グループはまた、イスカリオテのユダの裏切りの神話を発展させました。
ペテロと他の五人の弟子たちと同様に、ユダは最も精力的な補佐の一人でしたが、ペテロとは異なっていました。
ユダは、当時の書物には何の落ち度も無いように描かれているだけでなく、彼と彼の従者たちの多くは、イエスの敵である群衆とユダヤ人階層に対してエルサレムの街頭で反乱を起こし、ペテロを含むイエスの他の弟子たちは逃げ隠れしました。
数年後、エルサレムの洞窟で捏造されたこの誹謗中傷は、ローマと大祭司から報酬を得ていた諜報員がイエスの仲間にいたという検証された事実のために、真実味を帯びてしまったのです。


イエスは教会を創設したのか?

イエスはいかなる教会も創設していません。
使徒ペテロを最初の教皇とする教皇創設に関する記述や、信徒の集会に関する様々な言及も、後に付け加えられたものです。
ヘブライ語のQAHAL(ケヒッラー、ユダヤ教徒のコミュニティ)やギリシャ語のEKKLESIA(エクレシア、教会)のような用語は、もっと古い文献で随所に散見されます。


312_oayによる続報

W5 312-78より

「イエスの人物像が歴史的なものとなったのは、十字架にかけられ、復活を遂げたと考えられてから数年後だということを理解しなければなりません。それ以前は、イエスは預言者と見なされていただけで、その名声が高まったのは、驚くべき癒し、特にラザロを奇跡的に蘇らせた後のことです。」

312は以下のことを示しているようです:

1- メシアに関する聖書の記述を成就させたいイエスの願望。

2- ラザロは、(当時は)死んだように見える昏睡状態に入る薬を試したのではないか。

3- イエスに使われたスポンジは、死を偽装するための薬物に浸されていたであろう。


W5 312-88より

@IlEstEemps3 さんの質問 :2021年10月13日

「イエスが行った他の癒しと比べて、ラザロの癒しのどこが奇跡的だったのでしょうか?」

@312_oayの回答:10月17日

「イエスの主な目的は、モーセによって制定された基本的な要素に何世紀にもわたって加えられた恣意的で無意味な規則から民を解放することであったことを忘れてはなりません。

それ故に彼はメシアに関する預言を忠実に成就しなければならなかったのです。」


W5 312-Stat-2より

2021年10月18日、312_oayのアカウントのステータスが変更され、以下のバベリアのページにリンクしました。
https://babelia.libraryofbabel.info/imagebookmark2.cgi?Lazarus

「イエスの近親者であるラザロは、イエスがメシアの復活に関する預言を成就するのを助けました。ラザロは、後にイエスが自身の死を偽装するために服用した薬の有効性を自ら試したのです。」


10月20日、312_oayが「いいね」した記事

「ヨハネ19:28-29 この後、イエスは、聖句が成就するために、今やすべてのことが成し遂げられたことを知り、言われた。そこで、酢を満たした器が置かれ、それをヤナギハッカの上に置いて、彼の口に当てられた。アーメン。」

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