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【読書】 羊をめぐる冒険(上) 村上春樹

つまりね、生命を生み出すのが本当に正しいことなのか、どうか、それがよくわからないってことさ。子供たちが成長し、世代が交代する。それでどうなる?もっと山が切り崩されてもっと海が埋め立てられる。もっとスピードの出る車が発明されて、もっと多くの猫が轢き殺される。それだけのことじゃないか。

 1900年代の後半。バブルが全盛期になり、崩壊してゆく。時代は頽廃する。『ノルウェイの森』『海辺のカフカ』『1Q84』など、村上春樹作品は著者が生きた1900年代後半が舞台にされ、その時代の中で生きた(生きている)様々な人物達を描いているように思える。

 平成生まれのぼくは、むしろその時代とはあまり関係ないのかもしれない。ただ、時代や環境がその人の思想や性格にまで影響するのなら、そこからかけ離れた生活を送る、村上春樹作品の登場人物に引き込まれるのにもなにかしらの理由がある気がする……

 時代性を描写しつつ、物語の中で生きる人物たちについて、感想と考察を書いてゆきたいと思います。

あらすじ

「ぼく」は人間関係を急速に失いつつあった。学生時代に関係を持っていた女性の葬式から帰ると、今度は「あなたのことはいまでも好きよ」という言葉を残して妻が出ていった。
 学生の頃からの友人と協同経営する広告下請け会社は概ね順調だったのだが、友人は会社の規模を広げていくうえで、アルコール中毒になり、友人関係は失われていく一方だった。
 そんな折、撮影で知り合った女性と関係が始まり、やがて恋人となってゆく。同時期に会社はトラブルを抱える。「ぼく」が雑誌に掲載した羊のグラビア写真を掲載中止にしてほしいということだった。事務所にきたその男の話によるとすでに関係各社の了承は得ているという。「ぼく」の会社が承諾しない場合は、会社もろとも社会的に抹殺する準備があると強迫される。 「先生」と呼ばれる人の組織は政治・マスコミ・広告を支配している大きな組織だったのだ。「先生」は背中に星を持つ羊によって、組織を牽引する力を得たという。その「先生」は羊の力の恩恵を失い、死の床をさまよっていた。
 共同経営者からその話を聞かされた「ぼく」は黒スーツの男から、羊の写真の出所を突き止めろという依頼をされる。もちろん、強迫ありきで。
 写真は「ぼく」の友人である「鼠」から受け取ったものだった。そして、写真にうつる背中に星を持つ羊が組織の追い求めるものだった。
 かくして「背中に星をもつ羊」を探す旅は始まった。

 

人生の種類と認識

あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたじゃないかなって。

 自分が人生に思うことと、自分が人生に求めていることの乖離。だれしも、そういったへだたりを抱えている。主人公の「ぼく」は自分の人生を平凡で退屈な人生と形容詞して卑下しているけれど、実はそれ自体を求めている。そんな示唆を彼女は気づかせてくれます。

分からないことへの態度

僕にはわからないことがいっぱいある。きっと年を取ったから賢くなるというものではないのだろう。性格は少し変わるが凡庸さというものは永遠に変わりない、

 「わからないこと」に満ちあふれて世界。そのことを自覚なしに生きることは、日々のストレスや雑多なことからぼくたちを遠ざけてくれる。しかし、必要に迫られたとき、「あぁ自分はなんにも知らなかったのだな」と後になってから気づく。

 無知には、年齢も、性別も、国籍も関係ない。無知には想像が欠けている。そんな「欠けているもの」を「ぼく」が俯瞰してゆく話にはなぜか引き込まれてゆくような感覚があります。

 登場人物たちに感じては現実感の希薄な人多く登場します。普通に会社にいって、普通に暮らし、普通に生きる。それが現実だとしたら、彼らの誰一人普通な人はいません。徹底的にその人の現実を書いてゆく筆致が、普通ではない人の普通を切り取ってゆく筆致が好きです。

手紙がうまく書ける人と書けない人

もっとも手紙がうまく書ける人間なら手紙を書く必要もないはずだ。何故なら自分の文脈で十分生きていけるわけだからね。

 手紙を書く理由。ぼくは、もっぱら出す当てのない手紙を書いています。うまくしゃべれないことはもちろんのこと、もう会えなくなってしまった人(会いずらい人)に対しては出さない手紙に思いを綴って自分の気持ちを納得させているのです。

 自分の文脈で十分生きていける。これにはちょっと首をかしげました。もし、文脈という中で生きているなら、自分の物語に登場する他人は自分でコントロールできるわけで、コントロールできない他人たちが自分の文脈のなかにも息づいていると感じるからです。

 ぼくは、自分の文脈の中だけでは生きて行けません。だから手紙を書くのです。それもうまく書けるだなんて思いません。手紙は書いている人にとっては一方的ですから。対話とか会話ではないからこそ、ありのままをさらけ出せる。だから、宛名は他の誰かの名前でもきっと自分に充てているのが手紙だと思うのです。

二流の需要

様々な時代が生んだ様々な二流の才能が莫大な金と結びついた時に、このような風景が出来上がるのだ。

 ばっさりと切った一文ですが、「二流」のものへの需要はかなり多いのではないかと思います。最低限の機能が着いた家具で手頃な値段の家具や家電。欠陥もなく、目立ったところもない住宅展示場にならぶ家。物凄く美味しいわけではないないけれど、こういうもんだよなという理由で通う飲食店。

 そんな「なにかと同化」することへの、需要はこれからも高まり続けるのだと思います。無個性で清潔な世界。コンビニやスタバ、マック、アイホン。確かに、納得のいく一文でした。

個人と世界

世界とは無関係に動き続けているのだ。ー世界ーそのことばはいつも僕に像と亀が懸命に支えている巨大な円盤を思い出させた。象は亀の役割を理解できず、亀は象の役割を理解できず、そしてそのどちらもが世界というものを理解できずにいるのだ。

コロナウイルスが流行り始めた頃。一人の人間の生死よりも経済や社会が優先されたこと。そのせいで、死ななくても良いはずだった人が死んだ。

それでも社会や経済が成り立ってるから、保険や年金などの社会保障も成立する。凡そ個人では意識の届かないところを、まるで森のように機能してるものー経済と社会。ぴったりな例えだなぁと気に入った表現です。

非現実的な

非現実的なものって。そんなに長くは続かなない。そうじゃないかしら?

現実的なものって、目にめえて予想や展望の付けられるもの。安心や安定を求めるには現実的なものに...と僕も思います。

でも、現実的なものには行き止まりがあって、終わりがある。今のままでは一見かないそうにない夢のようなら非現実的なものがないと、人は退屈で死んでしまう。だから、不倫や浮気などには怪しげな魅力がある。自分も誰かも傷つけるのに、止められない。

 結局人は、非現実的なものに敵わないのだとわかる。

正直と真実の違い

 正直さと真実との関係は船のへさきと船尾の関係ににている。まず最初「正直さが現れ、さいごには真実が現れる。

正直でいること。そこには美徳があり、迎合されるものがある。けれど事実は時に残酷で、正直と真実をイコールに結べることはできない。

 辞書をひけば、どちらの大儀も「嘘偽りのないこと」とある。しかし、そこには隔たりがある。言葉の面白いところは、そう言った意味には幅があり、深さがあること。もちろん、日常でこんなに意識的に言葉を使うなんてないのだけれど、何故かそう言った違いが気になってしまいます。

 この人はどんな意味でこの言葉を使っているのだろう。そこには辞書の役に立たない領域があって、だから比喩が必要になるんだなとしみじみ感じました。

凡庸であること

凡庸化が始まったのは人類が生活と生産手段を分化させてからだ。

 労働による対価としての収入。収入によって他の人が生産したものを購入する。できるだけ多くの人が欲しがるものだけが市場に出回る。だからどうしたって凡庸になる。

 その中でnoteのような、無料にも有料にもできるコンテンツ。制約という制約がなく、多くの価値観で溢れたもの。そこには選択肢が多いという魅力があると思います。そう言った意味で、新しい時代が訪れたのだとも思うのです。

 

まとめ

 「羊」は多くの文学で題材にされていると感じる。何かを暗示させるような動物。フワフワしていて、つかみどころのない生き物。

 身近にいるわけでもないのに、寝る時に羊を数えるという文化もある。そんな、精神世界に根差した動物は、物語にもってこいの生き物なのかもしれません。

 『羊をめぐる冒険』でぼくが思う最大の魅力は、非日常性です。およそ、一般的な時間の流れから逸脱していく主人公は、普段は随分現実的な生活をしています。

 それでも、ある時に、なにかの拍子で非現実的な正解に足を踏み入れてしまう。そこでは時間の概念がぼやけていって、生命が希薄になり、現実的なものがどんどん損なわれていく。もちろん、そこも現実の世界なのだけれど。

 そんな、誰にでも起こりうる非日常が鮮明に描かれているところが好きです。現実的な世界では考えもしないこと。でも、それは本来もっと考えるべきことだったりする。「当たり前」に対する挑戦的な姿をもった作品でした。

 下巻は、いよいよ冒険が始まります。どっぷりと非日常に浸かるのも、大切なことなのかもれしません。





 

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