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どれだけ頑張っても「出来ないこと」が、“ある”

小さなことも、大きなことも。

幼い頃も、大人になっても。

誰しも「出来ないこと」の壁に誰しもぶつかったことがあるはずだ。

“出来ない”を決めているのは、誰でもない自分の感情

九九の七の段が言えないとか、忘れ物をしてしまうだとか、納得いく作品が作れないだとか、仕事のスピードが遅いだとか、上手く話せないだとか、決めつけているのは全部感情。

七の段が言えなくたって電卓があるし、忘れ物が多くても何日も前から事前の準備をしたら解決できるし、納得いかなくたって何か提出したらそれは作品に成って、遅い・話せないも比較対象がいるから速度が決まる、極端な話をすれば赤ちゃんと比べて見たらどうだろう。


そもそも人は何も一人で成し遂げられないと言われているし、勝手に自分の実力を決めているのは感情でしかないのかもしれない。


「私がもっと頑張っていたら」なんて口癖はやめよう。

私の口癖は「私があの時もっと頑張ったら」「私が気付いていたら」だった。

社会人という立場になり莫大なお金を扱い、私が最高のアプトプットだと思っていても、周りが褒めてくれたって、アンケートでは連続して「期待以上」が出ない日々。先輩から日々もらうフィードバック。

常に仕事のことを考えて、徹夜して、休みを返上して、走り回っても、だ。

自分が頑張れなかったから、この結果に辿り着いてしまった。期待してもらっていたのに、あんなにたくさんの人が関わってくれたのに、悔しい、不甲斐ない、泣きながら心の底から思っていたのは「私がもっと頑張っていたら」。


これ以上何を頑張ればいいんだろうと追い詰められた先に、言われた言葉は「人間はその時とっている行動が、その人の中の選択肢のベストである」だった。

その言葉が本当ならば、私は常に私の選択肢の中のベストだったはずじゃないのか。


つまり、事実、“出来ない”でしか、無い。


考えたって、徹夜したって、休みを返上したって、出来なかったのが私の実力だった。そこで出てくる言葉が「私がもっと頑張っていたら」はそれはただの傲りでしかない。

自分の能力を履き違えて、勝手に見積もっていた。

ちゃんとその事実を受け入れない限り、次のステップは、ない。


達成したい、このレベルまで行きたいと願って行動して前進していればしている事ほど、悲しいことに「あれだけ頑張ったのに」ということにすがってしまう。必要なのは、では次、何の行動をしたら実現可能か、なのに。

あの時これを頑張っていればという振り返りよりも、事実を受け入れて問題の解決策を見つける方がよっぽど力がいるし思考を使う。


「視座を上げる」という目標を掲げてから、
常に“出来ないこと”はあるし、あるべきだなと思うようになった。

所詮、23年しか生きていない私なんて、40年も100年も生きている人間から見たら、ちっぽけなのだ。現状に満足した途端に「出来ない」ことが無くなってしまう。

自分が上を知っているから、出来ないの壁を見つけることが出来る。そもそも視座が低くてまだ気付けないほどの大きすぎる問題ならば、それを門のように自分は何事も無く潜って通り過ぎてしまうのだ。

大きすぎる問題はまだ、自分の問題では無いのだから。門が壁になったことをプラスに考えよう


弱さに出会った時こそ自分なんかちっぽけだと悲観するのではなく、その壁をどうやってよじ登ろうとか、叩いて壊そうとか、回って見ようとか、チャレンジして自分を更新して生きたい。


ここまでやってきたという記憶があるからこそ、大学生から社会に飛び出て、“出来ない”を経験する方が、幼い頃の逆上がりが出来なかった事実を受け止める経験より、よっぽど辛い。

しかし、結局、大人になっての“出来ない”に打ちのめされても

小さな私が校庭の隅っこの一番低い鉄棒で毎日練習し、いつの日か鉄の棒をくるんと一周回ることが出来た成功体験。私はそれを持っている。


その思い出が、積み重ねが、今の私の心の小さな自信に繋がっているのかもしれない。


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