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哲学: 発見と観察

哲学は考えることを考えるという面がある。

ニーチェやショーペンハウアーなどの箴言的な話ばかりが哲学ではない。それは思考ではなく知識だ。

どう考えるかということは、多くの人が苦手としているのではないだろうか。学校で習うことはほぼない。

私たちは生活の中で「発見」することもあるだろう。この時、「根拠は?」「論文は?」と問うてはならない。「エビデンスは?」と慣れない英語を使うなどもってのほかだ。
発見というのは、これまでなかった経験をすることでもある。

たとえば、「神の奇跡を見た」としよう。「神は偏在しているといわれている」「この経験はどうやら神の存在が真実だと考えることができる」という思考だ。

私たちの思考は何かの法則性を見出そうとする習性や機能がある。
神の存在を考えるのもそんなことの一つだろう。(ぼくは法則性を考えることはあるが神の存在は考えてはいない)

発見の正当性は理論や法則から得ることができるかもしれないが、発見が必ずしも演繹的推論や帰納的推論から生まれるわけではないのだ。

ぼくにできることは発見だ。その発見から帰納的推論から蓋然性を高め、演繹的推論で法則性を見出すことしかできない。
そういったことにも哲学の面白さがあることを知っておきたい。