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僕の手から、かめはめ波が出なくなったのはいつからだろう。

「か・・・め・・・は・・・め・・・波っ!」

小さい頃にドラゴンボールを読む度に、かめはめ波の練習をした。
現実に手からビームが出てくることはもちろんなかったけれど、自分にだけはかめはめ波が出ているのが見えた気がした。


子どもの頃は目に見えないものが見えていた。
自由に空想の中を生きることができた。
好きなことを好きだと思うことに何の制限もなかった。

悪を倒すヒーローにもなれたし、自由自在に魔法も使えた。

でも、いつからか僕の手から、かめはめ波は出なくなっていた。
そして、そんなことを意識する余裕もなくなっていた。

父の事業はうまくいかなくなって借金だけが残ったし、母はうつ病で、兄は引き込もるようになっていた。
家では父と母の喧嘩は耐えなかったし、自分のちょっとした一言で翌日に母の手首に傷跡が一つ増えた。


堅実に生きよう。
我慢して生きよう。

ちゃんとしていないと、お金は稼げないのだから。

そうしていると、

自分は何が好きなのか。
自分は何にこだわりがあるのか。
自分は何をやりたいのか。

そうしたことが、わからなくなる。

自分の中の個は次第に消えて、周囲の大人や友達を見て、多くの人が歩いている安全な道を選んでいくようになる。
社会の常識を身に纏っていく。だってそっちのほうが賢い生き方だから。

あるがままを受け入れるのが大人で、嫌なことでも我慢してやり遂げるのが仕事のできる人。

そうして何年も働いていると、ふと頭によぎることがある。

友達と飲んだ後の帰り道。日曜日の夜のベッドの中。

「このままでいいんだろうか…?」

決して不幸せなわけでもない。仕事が面白くないわけでもない。
でも、漠然とした不安がつきまとう。

今の環境はいつまで続くんだろう?
この仕事をあと何十年も続けていけるんだろうか?
自分は転職できる力があるんだろうか?

そんな不安か、恐怖かよくわからないものが、心の隙間に入り込むようにゆっくりと足元からのぼってくる。
でも、翌日仕事にいくと日々の仕事の波にのまれて、そんな感情はいつの間にか消え去ってしまう。
だから、この感情の正体に長らく気づけなかった。



縁あって、そんな状況から大学時代の先輩と一緒に4年前に起業することになった。
当時の僕は、大企業に勤めていた。年齢の割にはそこそこ年収をもらっていたし、付き合っていた彼女にプロポーズして、2ヶ月後に結婚が決まっていた。

一方は、多くの人が歩んでいる日々の生活が約束された道。
もう一方は、この先どうなるかもわからない、まだ道にすらなっていないような危険な道。

仕事やお金、パートナーとの関係。どれもが不安だった。
でも、そのときにあえて危険な道を選ぶことにした。

自分のやりたいことをしようとか、自分はできるとか、理想や自信があったわけじゃない。

ただ、安定と言われる道を歩き続けるのが怖かった。その道を歩けるのは僕の力ではなくて誰かのおかげ。僕の営業力が優れていなくても、大企業の看板があればお客さんは話を聞いてくれるし、商品がよければ買ってくれた。
10年後まではいいかもしれない。でも20年、30年経ったらどうか。自分はずっとその仕事を精神的にもスキル的にもやっていけるのだろうか。やっていきたいと思っているのだろうか。

そんな強迫観念から、危険な道にいかないといけないと思った。どうせ失敗したとしても、今の安定した道に留まってもいつか死んでしまうかもしれない。それなら、今飛び込んでしまったほうが致命傷は避けられる。
生き延びるための選択だった。油断してしまうと、生活は簡単に壊れてしまう気がしたから。
手堅く堅実に生きるために、あえて辛くても危険な道をいこう。
それが自分が安定して生きていくために必要だと思った。

起業してからは当然のようにお金はなくなっていった。
でも、意外と生活のために必要としているお金はそんなに多くないことに気づいた。
隙間を埋めるために使ってい趣味や飲み会、服装にかけていたお金も時間も、そんなに自分に必要じゃなかった。

そんなときに読んだある本に、こんなことが書かれていた。

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

岡本 太郎. 自分の中に毒を持て

お金があるときは何となく満たされたいから、何となく楽しいから、そうして暇や隙間をうめるように時間とお金を使っていた。
それが常識や世間の目に無意識に縛られていただけだと、失って気づいた。

もちろん、そこから万事うまくいったわけではない。ドラゴンボールなら強敵が出てきても、主人公は強くなって敵を次々に倒していく。
でも、現実はそんなに簡単なわけじゃない。面白いくらい何もできない。やれと言われた簡単なことすらできない。
自分で選んだ道なのに、何もできない自分が恥ずかしくなった。次第に居づらくなった。そんな日々を起業して2年ぐらい過ごした。
以前このnoteにも当時の状況は書いたけど、そんなときに自分を救ってくれたのは小さな習慣からだった。


何にも仕事ができない状態で、一気に仕事ができるようになるわけじゃない。だから現実とのズレで苦しかったし、何もやる気がでなかった。そうしていると、どんどん自分を認められなくなる。

だから、小さな習慣を意識した。まずは何も変えられなかった自分から一歩前進することを意識した。
変わろうと思って最初にやったのは、腕立てと腹筋10回だけ 笑
他の人から見たらどうしようもない雑魚さ加減で、たぶん笑われてしまうようなこと。

そんなの意味ないじゃん。
それ仕事に関係ないよね。

でも、自分がやれる一歩目を踏み出すこと、昨日の自分とは変わったと自分を認められること。そうしたことが何よりも大事だと、30歳になった今振り返って思う。

今の自分もこの延長線上にしかない。
とんでもない場所に至るには、なんでも無いことをやり続けるしかない。
そう思って、今ではやる内容は大きく変わったけど、筋トレも毎日やっているし、読書習慣も、Twitterに学んだことを投稿するのも、考えている内容を毎朝A4用紙に10枚書き出すのも、毎日ずっと続けている。
今年からは、週1本noteの投稿と、月8〜10冊程度の本を読むようにしている。


昔の友人や後輩と話すと、なぜそんなに頑張れるのかと聞かれることがある。でもこれは努力なんて崇高なものじゃない。

ただ、面白いと思えるようになっていったから。


これまでずっと誰かの視線や社会の常識、お金に縛られていた。
我慢して辛くても過酷な環境に身をおかないと怖かった。
そして行き詰まった。

自分以外の人がやったほうがいい。自分の意見なんて無意味。自分は才能の無いダメな人間。そんなことばかり思っていたけど、2年間ぐらい徐々に習慣を積み重ねている中で、少しずつ自分という存在を認めることができた。少しずつ貢献できるようになった。少しずつ仕事ができるようになった。

そうしていると今度は、

自分は何が好きなのか。
自分は何にこだわりがあるのか。
自分は何をやりたいのか。

そうしたことを思い出せるようになっていった。無意味で役に立たないと思っていた感情や感性を取り戻すことができた。

自分は空想が好きで何かをつくったり考えることが好きだったのに、そうしたことを忘れてしまっていた。
それで食べていけるわけじゃない。他人より優れた特別な才能じゃない。もっと生きるためには手堅い道を行かないとダメだと、無意識に切り捨ててしまっていたことに、何年も経ってようやく気づいた。

そうして自分が好きだと思えていたことが今の仕事と繋がっているから面白くて、いろんなことに取り組めているのかもしれない。

今日、ついに30歳になったので、最後に今後の人生で大切にしたいことをまとめておこうと思う。

論理や合理ではなく、人間の好きや意志が宿ることを心がけたい。
大きく強く見せるのではなく、素直に弱さを受けれられるようになりたい。
内にこもらず外に開いて、常に新しいことを学んでいけるようにしたい。
誰かの常識ではなく、自分にとって大切な人や物、時間を大事にしたい。
想像しえないことを、恐怖ではなく純粋に楽しめる人になりたい。
待つのではなく、自分から歩み寄れる人になりたい。

いつか見返す時にがっかりしないように、これからも一歩ずつ歩んでいこうと思います。

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