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生存戦略としての「30%」

7月上旬、心療内科にて医師より、適応障害との診断が下りました。ただ休職、離職などは考えておらず、暮らしと働き方を調整しながら、生きながらえているという状況です。就職してから3年目の今、自身に起きたこと、その中で考えたことを記録として残しておこうと思います。

何かがおかしい

部署内の異動があり、4月から新しい職場で働くことになった。そこは新しい役割の候補期間として大いにチャレンジできる環境であり、自分にとって異動は「栄転」とも言えた。

4月の異動初日から新型コロナウィルス感染症対策で運営の動きが大きく変わり、まだ馴染めないチームメンバーへの多くの伝達事項、お客さんへの対応に追われ、毎日残業が重なったが、「大変な今だからこそ頑張らないと!」という気概で過ごしており、仕事へのやりがいも感じていたのだと思う。

ただ、4月から自分の身に少しづつ変化が出始めてきた。最初は「環境の変化があったんだから当然」と思って目をつぶっていたけれども、徐々に生活と仕事に支障が出てくるようになってしまった。

具体的にどんな変化があったかといえば、動悸、頭痛、体の痛み、ふいに泣いてしまう、悪夢を見る、食欲不振、入眠できない、寝ても途中で何度も覚醒する…かと思えば休みの日には夕方まで布団から出られないなど過眠の症状もあった。

身体的な変化もそうだが、それより苦しかったのは「職場の人たちが自分を悪く思っているのではないか」という思いが出てきたことで、これが本当にきつかった。仕事をうまく回せてない自覚が認知の歪みとして働き、職場の人を信用することができなくなってしまっていた。

ここまできたときには「少しやばい」という感覚も多少出てきたのだけれども、ただ「おかしいんだけれども…もっと頑張れば…?」という気持ちもなくはなかった。効率的に仕事を回せない自分の「弱み」が今の環境を作っているから、その課題をいかにクリアするかという思考が頭の半分ほどを占めていた。

病院に行くことを決断できた

そうこうしている間にも、泣きも悪夢も不眠も酷くなり、いよいよ身体も思考も現実生活についていけなくなっていた時、「もう頑張れないな」と思えるきっかけがやってくる。

ある日、パートナーに誘われ新橋で夕食を食べている時、自分でもギョッとするくらいの長い時間シクシクと泣いてしまったということがあった。閉店で店を出たあとも大雨の中、傘もさせずに地面に倒れこんで泣きじゃくり、タクシーに放り込まれても車内の足元にうずくまり泣き、タクシーから降ろされても立ち上がれずに泣き続け雨ざらしになったのは、アルコールが入っていたせいだけではないと思う。

その翌日、ボンヤリとした頭で入ったタイ料理屋で、会社の先輩のとある記事を思い出し、舐めるように読んだ。彼は元上司で、適応障害との診断を受けてからも仕事を続けており、その記録をnoteに記してくれているのだった。

この記事を読んで、病院に行くことを決めた。何故ならば、この記事の書き手の先輩は、病院へ行ったことをきっかけに、自らの手で仕事を前向きに調整することができた、いわば成功事例に見えたから。それと、診断を貰って自分の状態を客観的に捉えたいという気持ちも(あるいは「安心したい」も多分に)あった。

家の近くの心療内科に電話をかける。実は昨年も、心療内科に電話をして予約を2週間後にしか取れないことを告げられ諦めている。そして、今回も例に漏れず、電話した最初の心療内科は初診予約が当日には取れず電話を切ったが、昨年以上に「やばい」という気持ちがあったため、諦めずに電話をかけたもうひとつの心療内科で当日の予約をとることができた。

今回は「診断書を貰うこと」と目的が非常にはっきりしていたこともあり、初診にも関わらず診察は10分ほどで終了した。ここで「適応障害」「抑うつ状態」と正式に医師からの診断が下った。

そのあとにやったこと

①上長への報告・相談
翌日、速やかに上長に今の状況の説明をした。上手く話すことができないと思ったので、あらかじめ自分の状況をよく知っている社外の人に「相談の仕方」を相談したのと、相談内容をドキュメントにまとめて当日はそれを見せながら説明をした。幸い親身になって話を聞いてくれ、問題の所在の検討や業務環境の調整をはかることができた。

②親・パートナー・友人に報告
今後、仕事以外の場で関わることになる人たちにも報告をした。あとから聞くと報告を受けた母親は、喉元まで「仕事を辞めて実家に戻ってくるか」という言葉が出かかっていたとのことだった。パートナーは「前向きな変化だね」と言って、上長への相談の仕方を教えてくれた。友人は「よく病院に行く勇気を出したね」と褒めてくれた。

③できる限り職場の人にも状況を開示
あまり踏ん張りが効かない状況であることと、仕事の中でも「できること」「手伝ってほしいこと」を具体的に伝えた。職場の人に、具体的にお願いしたいことをセットにして具体的に説明し、「わかりました!やります!」とクリアな回答(と多少の心配)を得られることで「職場で悪く思われている」という認知の歪みはリセットされることとなった。

④その他
お花を買って花瓶に生けてみたり、レトルトの食材を買って温めるだけ食事をしたり、なるべく心と体への負荷が減ったり、リラックスできることを心がけるようにしている。それと「行かなきゃ!」になっている習い事の劇団とヨガは少しお休みすることにした。

気づいたこと

今思えば、7月の頭に道路に倒れこみ泣き崩れたことは、ギリギリのところでやっと出せたヘルプだったのだろうと思う。だから、信頼できる人の前で感情を出せたことは、自分の状態を認識するために大事なプロセスだったんだろう。

診断を貰って大きな変化があった、気づいたことはこの3つ。
・「もう少し頑張ればできる」「もっと工夫したらできる」の思考は局面によっては危険
・身体と心を無理させてまで頑張り続けないといけないことってひとつもない
・「最初から30パーセントしかないよ、どうする?」という思考になれた

もう疲れてきちゃったのであんまり詳しくは書けないのだけれども、とにかく真面目な人は「自分の状態を矮小化していないか?」を日常的に問いかけてほしいと思います。「あの人だって大変なんだから自分のしんどさなんて…」という気持ちが出てきた時には黄色サインです。その状態が長く続くと、認知は歪み続けていきます、そして最悪死に至ります(実際、自殺について調べていた)。人は人、自分は自分と問題を切り分けて考えましょう。これは全部、過去の自分にも言ってあげたいことです。

今とこれから

相変わらず、食欲は安定しないし、すぐに疲れるし、悪夢(特に「刃物で切られる」「追いかけられる」)はちょくちょく見るし、朝起きた時の胸の詰まりがあるし、気持ちが「あがる」ということはほとんどないけれども、それでも自分にとっては、診断を貰う前と今とでは、だいぶ違ってきている。

気持ちが「あがる」ことはない代わりにどん底に落ちないようにコントロールできているし、無理が効かないから、そもそも難しい仕事はひとりだけで手をつけずに、切り分けたり、任せたりしようとするようになったし、それと、眠りには以前よりも割とスッと入れるようになった。

これからまだまだ色んなことがあるだろうけれども、どこで生きていくかなんて自分の選択次第だし、究極的には「逃げ」だってひとつの生き延びる術だと思う。

あんまり気負わず、ゆるゆると、死なない程度に、ここで生き延びたいな。

P.S
精神科・心療内科に行くにあたって、先輩から教えてもらった『ラブという薬』という本がすごくスッと心に入ってきたのでお勧めです。たまたま旅先で出会いました。(結局、心療内科にかかった後に読むことになったのだけれども)

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