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【映画】感想:『検察側の罪人』

珍しく、公開すぐに観た。
実のところは、本命映画の上映時間を逃して次は3時間後…待つか、違うのにするか、という選択の中で、次点で見たかった映画を選んだ、という次第ではあるのだが。

…こういう映画を見た時に、重要キーワードに「歴史的エピソード」が出てくることがあるが、この映画もそうだった。そういう映画を観た時いつも、観ている最中に「しまったー」と心の中で叫んでいる。

本編とは直接関係なくとも、それが比喩表現であったり、重要なメッセージの暗喩になっていることはよくある。さらに、そのキーワード(出来事)を通して、監督や製作者の主題的メッセージが織り込まれてるとなると、もはや後悔の域である。

だから、「しまったー」と思う。

こういうことが多いので、これまで積極的に学ばなかった「歴史」という分野をちゃんと学ぼうと決意したのだが、現状は積読である。

この映画の中では「インパール作戦」というキーワードが出てくる。
1944年(昭和19年)3月、太平洋戦争の末期、すでに戦況は厳しい中で、形勢逆転を目指してインドの都市"インパール”を攻略しようとした作戦である。作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため、史上最悪の作戦と呼ばれているそうだ。
ネタバレにはならないので、今から観に行く全観覧者へ、どうかWikipediaでいいから読んでいくことを強く勧めたい。意味がわからなくともとりあえず把握しておいてほしい。きっと、映画の主題への納得度が高まると思う。

そう思ったのは、劇場の半数が中高生、半数が中年女性という構成で、これは明らかにニノもしくはキムタク効果ではないか…?!と、観終わった後に特にどちらのファンでもない私が気付いてしまったから。
ファンだから、というきっかけだからこそ、娯楽として楽しむのに加えて、彼らが何を表現しようとしていたのかわかると、見方がきっと変わると思う。私はファンではないが、特にニノへの見方がプラスに変わった。


《…この先ネタバレあるかも!》


一本の映画の中に、過去・現在の事件の5本が絡まりあう。
今まさに起訴されようとする事件を中心に、その事件の容疑者が過去に起こした2本の事件、その容疑者の「冤罪」をキーワードとする過去の1本の事件、そして、起訴される事件と並行して走るもう1つの現在の事件には「インパール作戦」のキーワードが絡んでくる。

エピソードと登場人物が多く、誰がどれの関係者か見失うと、話が見えなくなる。そこにキーワードが乗っかってくるので、インパール作戦は知識としてあると非常に楽だし、キムタク演じる最上が何を思って何を貫き、なぜ修羅に墜ちるかが分かる。後で調べて、私なりにわかった。

最上の周りの関係者は、”ポチ”諏訪部を始めとして、戦友として繋がっている。だが、生死を共にする友だからこそ、道を踏み違えた時に、取り返しがつかなくなる修羅へ墜ちてしまう。

インパール作戦は、軍内部でも実行には慎重な意見があったものの、牟田口中将が、他者の意見は聞き入れず、自分の中のストーリーを実現していくために強硬に実行してしまったが故に、史上最悪と言われる作戦実行の内容、そして多数の犠牲者を出してしまう。…と、私は読み取った。
最上も、そうだったんだと思う。自分の大切な人を奪った当時の最重要被疑者である松倉が、時効ですでに裁けない状況の中で、時効が廃止された現代においてまた被疑者として再会する…今度こそ、過去の少年事件や時効成立後であっても罪人であると分かっている状況、現代でこそ、極刑に処することが出来るかもしれないという、願ってもないチャンスが巡ってくる。
しかし、今回の事件では「シロ」。しかし、最上のストーリーでは、「クロ」でなくてはいけなかった。このストーリーに固執し、強行した先に、修羅の道が待っていた。

監督のメッセージには、「娯楽映画として楽しんでもよいが、現代日本の切実さを、映画を通して感じて欲しい」(パンフレットよりざっくり抜粋)とある。

日本全体を見渡しても、自分の身の回り、例えば会社や部署を見渡しても、そんなことであふれてはいないだろうか…そう考えた時に、映画の内容も「インパール作戦」も、ぐっと身近になった。後から見たら正論を言ってた人や、部下のために尽力したり自分を投げ出す人もいる中で、渦中にいて正しいことが見えなくなることや、自ら人として間違った道を選んでいくこと、そして巻き込まれること…その中で、1人でも真実を叫ぶこと。

ニノ演じる沖野は、最後まで真実を追い求め、最終的に、憧れの先輩であったはずの最上の修羅に向き合い、糾弾し、追い詰める。原作小説では最上の逮捕で終わるらしいが、映画は、おそらく逮捕されるのであろうという香りだけを漂わせ、沖野の悲痛な叫び声で幕が下りる。事件も解決しているし、免罪も発生せずに済んでいるが、なんともやるせない終わり。それが、沖野の叫びで代弁されつつ、沖野のやるせなさも伝わってきて、なかなかに悲しい。

どの道を歩むのかは個々の自由であり他者が口を挟む権利はないが、その先が修羅道であることはあってはならない。だが、多くの人はその道は辿らない。それを戒めているものって、なんなんだろうか。修羅の道に入る人をどうしたら止められるのか…そんなことを思った次第である。

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