何があったわけでもない

何があったわけでもない。
何があったわけでもないけれど、noteを入れてみた。
人様にお見せできるような文章を書けるわけではない。誰かに教えられるような知識も、共有すべき豊かな日常も持ち合わせてはいない。
この文章を誰が読むわけでもないのが、心を軽くする。
現実世界でぶつぶつ呟いていたら変な人だし、大声を出せば迷惑だけれど、ここならいくら呟こうが叫ぼうが自由だ。
文章は自由である。


小学校の時は、作文を書く機会がたくさんあった。遠足のたび、旅行のたび、運動会のたび、長期休みが明けるたび。国語の授業で書けと言われれば、みんな、適当に作文を完成させていった。この場合の「適当」は、きわめて良い意味の「適当」である。それなりの内容を、求められた長さで、時間内で終わらせること。私にはできなかった。書き始めたら終わらないのである。

しゃべっていたわけではない。ふざけてはいないし、寝てもいない。授業開始とともに一心不乱に書いているのに終わらない。枚数だけが嵩んでいくうち、書き終わった人はしゃべったり、次の課題をしたりしている。私も早く書き終わりたい。もはや書きたくて書いてるんじゃない。それなのに、鉛筆の先で紡がれる文字は止まることを知らず、無情なチャイムの音が授業終了を告げる。

また終わらなかった。何度目かもわからない、いつものパターンである。のろのろと先生の元へ行き、終わりませんでしたと告げると、先生は困ったような笑顔で「書き終わったら職員室に持ってきてね」と言う。真面目だね、いっぱい書いて偉いね、というようなニュアンスを付け足すことも忘れない。
先生だって面倒なはずである。いち生徒の行事の感想をそんなに長く読みたいはずがない。むしろ、私の下手な文章を読む時間なんて苦痛でしかないだろう。忙しい先生のスケジュールを考えれば、一分一秒でも短くするべきだ。放課後私が提出しにくるのを待つのだって、なおのこと面倒に違いない。普通でいいのである。いや、普通がいいのである。普通の長さで普通の内容を、授業時間内に書き上げれば。そんな普通のこともできない自分が、いらぬ手間をとらされても優しい先生にそんなことを言わせる自分が、嫌で嫌で仕方なかった。

私からしたら、冗長な文章は罪である。長々と羅列された文字列は、読み手への配慮を忘れた自己満足の産物にすぎない。私の文章は常にそれだ。必要最小限、コンパクトにまとめようとするたび、自分の文章が嫌いになっていく。

私の目標は、いい文章を書くことである。自分で満足できればそれでいい。内容のある文章がいいのもしれないし、なくてもいいのかもしれない。面白い文章でも、真面目な文章でも、着地点はどこなのかわからない。とりあえず書いてみることだ。練習するのは自由のはず。そう思って書いてきたこの文章すらも、やはり無駄に長い。

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