喧騒

 「おはよう」
 たった6畳の一人暮らしの部屋で、私は自分に挨拶した。リモコンで照明をつけ、一番暗い設定に急いで変える。

 掛け時計の2本の針に目をやると、仲良く一緒に「12」を指していた。3本目の針がせかせかと動くせいで、その2本は徐々に離されてしまったけれど。

 閉め切られたカーテンを開けてみるも、私に朝日は降り注がない。空は黒く塗りつぶされているから、「皆」にとっての一日は既に終わったようだ。窓の外を見てみても、猫背の私の目には物干し竿しか映らなかった。少し背中を伸ばしてやれば、マンションやビルからぽつぽつと明かりが見えたけれど、異常に眩しく思えて、すぐに姿勢を戻す。すると、窓ガラスに反射した自分に気が付いてしまった。ぽやぽやと跳ねた髪の毛と、何も背負えなさそうな情けない肩幅。顔がはっきりと見えなくても、それだけで十分醜い女だと認識できた。

 自分の姿に耐えかねて、やっとベッドから降りることにした。床に足を下ろす。日光を浴びていない青白くて細い足首が、毛玉だらけの薄汚れたスウェットからぬるっと出てくる。伸びきった爪を身に着けた指が冷たい床の上に乗った後、やけに慎重にかかとを下ろした。立つ瞬間、少し力が入って五本の指にしわが寄る。ほんのり赤くなる感じが、何だか頑張っちゃっていて馬鹿みたいだ。やる気のない、堕落した人間にたまたま生えた足が、しっかりと地面を捉えるものだからすんなり立ててしまう。

 食べるものもなかったため、立ったついでにコンビニに行こうと決める。大して使っていない英語の参考書や空いた缶ビール、昨日脱いだTシャツたちを避けるのに失敗して踏みつけながら、何とか玄関にたどり着く。妙に行儀よく置かれたスニーカーに、ガイコツみたいな足を滑り込ませて外に出た。
 暗くて大人しい外は、胸を張れる何かを一つも手に入れていない私にはひどく孤独だった。夜の静寂(しじま)に飲み込まれそうになりながら、早歩きで目的地へと向かった。

 コンビニを出ると、ビールとつまみを得た私はきちんと顔を上げて歩けた。大人の飲み物を片手にぶら下げるだけで、少しばかり強くなれる気がするのだ。

 赤い錆を沢山付けた自転車が、駐輪場に寂しく佇んでいる。カゴもヘンテコに歪んでいて滑稽だ。アスファルトを突き抜けて顔を出した雑草は、誰かに踏まれてぺしゃんこだった。色が黄色っぽく褪せているし、泥が付いてしまっている。自動販売機の横に置かれたゴミ箱には、めん玉みたいにくり抜かれた2つの穴があった。その下には山なりの横線が入っていて、まるで泣きべそをかいているみたいだった。そのゴミ箱のすぐ横には、空のペットボトルが3本野垂れ死んでいた。

 「なんだ。こんなに汚いんじゃんか」

 道路に書かれた白い「止まれ」の文字だって、ところどころ擦れて消えている。マンションの郵便受けスペースへ行くと、チラシがぐしゃぐしゃに落っこちている。角に設置されているゴミ箱は溢れかえっているから、皆適当に床に捨てるのだ。チラシに写る人間の無数の笑顔が、このマンションの住人たちによって折り曲げられしわを付けられ、捨てられている。その歪んだ笑顔は全て、私に向けられているようだった。

 汚い世界を沢山見て、私は満足だった。良かったと思った。そのまま安心しきって、手を洗いに洗面所に向かう。そして私は、目覚めてから初めて自分の顔をはっきりと鏡で見てしまったのだ。

 とても汚かった。三白眼で、柔らかさの一切ない目。眉間と鼻先には赤く吹き出物が実っている。唇は乾燥しているせいで、縦に深く入った線が目立っていた。少し口を動かすと、彫刻刀で丁寧に彫られているみたいに、ゆっくりと、それらの線が開いていった。

 死んだような目を潤すように、少しずつ涙の水位が上がっていく。でも下まぶたは頼りなくて、ほろほろと涙は落ちていった。目尻から流れたと思えば、目頭からも容赦なく溢れていく。一滴零れるたび、食いしばった口が震える。顔にこびりついた汚いものは、決して涙と一緒に流れてはくれない。それどころか、みるみるアンバランスで見苦しくなってゆくのだ。


 鏡に映る世界には私一人しか存在せず、そんな私はいつまでも、ずっと汚いままだった。

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