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紙をビリビリに破いて部屋に撒き散らす。大人はそれを自分で拾い集める。

腹が立つから目の前の紙をビリビリに破った。おまけにそれを部屋に撒き散らしてやった。まるで子どもだ。でもその後、撒き散らした紙くずを背中を丸めて一つ一つ拾い集めた。子どもみたいなことをしてしまったなぁと、少し反省しながら。


生きているのは、楽しいことばかりではない。頭にくること、理不尽だと思うこと…愚痴や不満だって溜まってゆく。そういう気持ちを、外に出さないように我慢することが大人だと思っていた。でもそれは、わたしにとっては自分を苦しめる考え方になっていた。自分の中から湧いてくる気持ちを否定し続けた結果、わたしは壊れてしまった。

子どもも大人も人間だ。いくつになっても、どんなに経験を重ねても、色んな感情は湧いてくる。ただ、気持ちの処理の仕方は変わってくるのかもしれない。大人は社会の中に紛れた時と、そこから離れた時と大きく分けて二つの顔を使い分ける。社会の中ではうまくやろうと、グッと本音を抑えるけれど、抑えた気持ちは消化できずに溜まってゆく。そうやって溜まった気持ちは、毒になることもある。

「ストレス発散」

よく聞く言葉だ。わたしはストレス発散が上手くできない。自分のストレス発散になることは何なのか、探している最中だ。わたしも一応人間だから、不満や愚痴、文句はどうしたって湧いてきてしまう。そういう気持ちを外に吐き出した途端、自己嫌悪に襲われる。言ってはいけないことを言ってしまった、と。


以前知人に借りた本に、「その時その時その場にいない人を悪者にしながら、なんとかのりきってやろうじゃないか」と書いてあった。清々しいと思った。ビリビリに破いた紙を撒き散らした時、一緒に撒き散らしてくれた人がいた。一人でやるより、ずっと気持ちが楽だった。紙を拾い集めた後その人が言った。「今日ここで愚痴を言ったことは良いこと。明日も行ってやるために言ったこと。」

自分を責める代わりに、○○するためにしたことだと自分で自分に声を掛ける。

「~してやろう」なんて、上から目線に聞こえるけれど、そういう言葉で静まる感情もある。そこに本当の悪意が無いのなら、その場にいない人を悪者にしても、~してやろうじゃないかとその時だけ上から目線になっても良いのかもしれない。そういう自分の守り方もアリなのかもしれない。目的はそこじゃないから。なんとかやっていくための一つの手段。

しょうがない、なんとかのりきってやろう。明日も。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。