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わたし、ここにいてもいいのかな。

間違えてはいけない。間違えたら私はもうそこでダメな人になってしまう。自分の弱点を指摘されると、自分の全部を否定されたかのように感じる。今の自分の考え方も。存在までも。

相手の「正解」から外れたことをした時、身体の血の気が引いてゆく。ごめんなさい、わたしが間違っていました、だからそれ以上言わないで。わたしは未熟で、できた人間じゃない。自分でもわかってるから、これ以上傷口を広げないで。耳を塞ぎたい。自分の出来ていない部分から目を背けたい。ちゃんとするから、気が利く子でいるように努力するから、どうかわたしを弾かないで。

相手の「正解」の中にいないと、自分はそこにいる資格はない。試されているような視線を感じて、肩が上がり、息は浅くなる。

条件がないとそこにいてはいけないと思うことは、自分の存在に条件を付けることでもある。どこにいるにも条件を満たしていないといけないし、誰かといても、相手の求める条件から外れないように意識を集中させる。それでも、相手の意に反してしまうことは出てくる。その時がとても怖い。頭の中は真っ白になる。自分の存在が透明になってゆく。

条件が自分の中で強力なものになっていくと、周りの人にどんなに「いていいんだよ」と言われても心に響かなくなる。「いて欲しい」と言われる方がよっぽど楽だ。でも「いて欲しい」は言う側の気持ちの押し付けになる場合がある。だから優しい人ほど「いて欲しい」は使わないかもしれない。

居る場所は自分で決めないといけないのだろうか。どこに居るかを決められない人は、自分の選択に責任を持てない人なのだろうか。

自由は時に不自由になる。ある人にとってはパラダイスが、別の人には地獄のような世界になる。

それでも、地獄のような世界の中で、小さな選択は重ねていると思いたい。小さいことでも何かを選んでる。仕事に行く。今日着る服を選ぶ。Amazon primeで今日の映画を決める。やっぱり映画はやめて、読みかけの本を読む。

ここにいてもいいのかはまだわからない。どこにいればいいのかもわからない。そんな考えから解放される日が来るのかもわからない。解放されることが自分にとって楽になるのかもわからない。

虚しさが込み上げてくる。分らないことが多すぎる。いつ解放されるんだろう。誰か教えて欲しいとすがりたくなる気持ちを抑えて、自分にとっての答えをまた探しはじめる。それでも、弱音を吐きたくなる時もある。そんな時は、言わせて欲しい。首元で引っ掛かっている気持ちを吐きだすことを許して欲しい。もう聞き飽きたかもしれないけれど、それでもやっぱり「しんどいんだ」と。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。