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表現モンスター②

こんにちは。今回は、表現モンスター①の続編。
承認欲求を否定し、人の評価を恐れてきたぱれすぅ〜の心境の変化について、つらつらと綴ります。

前回の記事:


意識改革のきっかけのお話。

大学2年の春休み。思いがけない話が舞い込んできます。
「今度うちで発表会するんだけど、ぱれすぅ〜出てみない?」
かつてお世話になった地元のバレエ教室の先生からのお誘いでした。

「実力のない私が人前でバレエを踊り、評価され続けるなんて耐えきれない!」と思ってそれまで2年半バレエを辞めていた、ぱれすぅ〜。
ただ、バレエ愛は健在で、バレエ音楽を聞くたびにワクワクして浮足だったりしていたのも事実。「バレエなんて忘れて次いこ!」と別れた後の慰めを他に求めるような思考で始めたフラメンコも、結局は「バレエっぽい。もっとフラメンコっぽい動きにした方がいいと思う」とサークルの先輩に言われる始末。フランス語においても、入りがバレエだったことからつい話にバレエを織り込んでしまう。
何をやるのもバレエが引っ付く人生。ああ、青春をバレエに捧げた時点で、私はもうバレエを切り離すことはできないんだろうなぁ。そう思っていた矢先のことでした。
母の推しもあって久しぶりに踊ることに。

ぱれすぅ〜は男性と組んで踊る経験が乏しく、そのため、二人で踊るパドゥドゥへの未練が少しありました。ただ、復帰仕立てで、パドゥドゥは全くできる気がしない。なにせ、パドゥドゥは長く、リフト(男性が女性を持ち上げること)もされる。受験太りの余韻が残るその当時のぱれすぅ〜が挑むには難題すぎたため、リフトが少ない作品に挑むことにしました。

まずはレッスン代を稼ぐべく、春休みはバイトを詰め込み、大学経由で給付型奨学金をゲット!
バレエスタジオの雰囲気は独特で、久しぶりにオープンクラスへ行ったときは緊張と不安でいっぱいでしたが、バレエが好きで毎日来ているようなマダムたちと同じレッスンを受け、お世話になっている先生の助力を受け自主練を重ねていくうちに、踊りの上達という目的へと没頭していきました。
ただ、この時の研ぎ澄まされ方は、職人的な踊りの技術だけではありませんでした。
この時のメンタリティは、「プロになるための技術磨き」ではなく、「自分が舞台を楽しむための技術磨き」に重きを置いて踊っていました。そのため、かつて持っていたバレエに対する正統性への偏った美学は置いておいて、ひたすらに
「自分が自分のために舞台代を払っているんだから、私に対する心ない批評が聞こえてきたとしても、誰にも迷惑をかけていない。いや、バレエの再開を喜んでくれた恩師や母が楽しんで見てくれるような踊りでありたい。それができれば、他なんて関係ない。」
と思って練習していました。

このように思えるようになったのは、日本で大学生になってからの交友関係の変化のおかげだと思います。例えば、大学ではバレエとは全く縁のない友人に恵まれましたが、そうした人からすればバレエの技術よりもダンサーの笑顔だったりオーラを評価するのです。また、高校生までは「清く正しく生きる」ことが人生の幸せの頂点だと思い込んでいましたが、人間臭く生きる人が意気揚々としているのを見て、自分の幸福論に疑問を持ち始めました。
ぱれすぅ〜の性格上、相変わらず夜遊びとかはできない真面目な部分がありましたが、「類は友を呼ぶ」という諺通り、同じような仲間と女子会をしたり銭湯に行ったりお泊まり会などをしたりしているうちに、赤の他人の評価よりも目の前の仲間が「バレエをしていない私でも友人でいてくれる」、そして「バレエ以外の世界を通して俯瞰する目」の存在に気づき、「今の踊る自分に何が生み出せるか」という問題意識と、「見知らぬ大多数」から「自分の大好きな仲間・先生・家族」へと承認欲求の対象の明確化が大きな変化でした。

とはいえど、「演じる」と「自己承認欲求」のバランスは難しい。

自分のための踊りと開き直ったぱれすぅ〜。
されど、「演じる」という部分に対しての自己承認欲求とのバランスの葛藤は続くわけです。

踊る自分は、自分であって自分ではない。

選んだ踊りは、いわゆる古典作品と違って物語があるようでないものでした。
つまり、身振りで恋愛カップルのわちゃわちゃした感じを演じるわけですが、そのカップルがどんな道を歩んできたのかといったお話はなく、ひたすら抽象的。

当時恋愛経験は全くなかったぱれすぅ〜は、恋愛に関しては周囲の大学の友人の恋愛話を聞いて妄想を膨らますくらいしかできません。
うーん。恋人を演じるのは実体験がないし無理だな。
よし、男友達との会話っぽくいこう。
運よく、そのキャラクターは比較的はっちゃけたタイプで、庶民的で人間臭くて、元気に踊りくるう感じだったので、その喜の要素を全面に出していく方向で踊り始めました。

普段のぱれすぅ〜は若干おとなしめで、恥ずかしがり屋。(中身はだいぶ破天荒な時があります。)
そのため、踊るときは自分を出さず正しい踊りでいることに着手してきました。

しかし踊りには性格が出るもの。

前であれば自分を隠すようにしてきましたが、この時は自分とは真逆な性格の役らしさを出すためにあえて「思いっきりはっちゃけた自分」を要所要所出すことにしました。

例えば、音どりやジェスチャー。

普段なら手を叩いたり騒いだりしないけれども、自分の中には日本人の祭りの血が騒ぐ時があって、思いっきり太鼓を叩いたりノリノリで踊ったりしたい自分がいるわけです。動き自体はある程度バレエスタイルとして定まっているので、動きのアクセントの付け方や一瞬のジェスチャーに関しては正しさよりも「自分らしさ」を優先することにしました。すると、不思議と自然な動きになり、自己承認欲求はいい方向に出され、驚くほど踊りとマッチしました。

これだ!

発見した喜びも束の間、繰り返し踊ると自分の踊りに飽きてくる。気づくと、なんか自己承認欲求丸出しの「私を見て!オバケ」が鏡の前にいる。

またか…。

立ち止まっては、闘って。自主練の中で、
「お前、なんでそんなにプライド高いんだよ。そんなに認められたいのか。人に嫌われたくないのか。」
「いや、私のために踊ってんだからいいでしょ。別に。」
「そんな踊り見てても、楽しくね〜。そうやって自分を甘やかしてたら、成長できるもんも成長できねーだろ」
「そうよね。でもどうしたらいいのよ。私はプロでもない。誰も私の踊りに期待もしていないだろうに、誰が私を認めてくれるというのよ。私だけよ。」
「まあ、それも一理あるな。でも、度が過ぎたら自分を裏切ることになるぞ」

といった問答と向き合い続け、迎えた発表会。
私はこの時の全てを出し切って踊り終わった後の歓声を一生忘れません。
今までにないほどの勢いのある暖かい拍手を浴びました。
踊りに関しては決してパーフェクトとはいえないですが、バレエを再開して奮闘したその3ヶ月間のもがき、そしてバレエを通して感じてきた一連の苦悩が一瞬で飛び去るくらい幸せで、嬉しくて。

プロにはなれなかったけど、この一瞬を味わえたなら、私は超絶幸せ者だ。
今がバレエ人生のピークだ。

すると、私の中にあった「私を見て!オバケ」は、見てくれてありがとうという気持ちと相まって「表現モンスター」へと変化したのでした。

次回!

今回は意識改革のきっかけに焦点を当てて書きました。
次回は「私を見て!オバケ」と「表現モンスター」との違いやその後どう向き合っているのかを書いていこうと思います。お楽しみに。

ではまた〜!

次回↓


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