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他人にかけてはならない言葉/他人をジャッジするな

漫画家の芦原先生が亡くなられてしまった話。
俺は、未熟ながらこの先生と作品は今度の騒ぎで知ったクチで、ずっとファンだったという方々にはまったく及ばないけれども、それ以来非常に悲しみを抱きながらネット上の反応を眺めたり憤ったりしている。

ビビったのは、亡くなった芦原先生に対して「繊細すぎる」という言葉を投げかけているアカウントが散見されること。
こんな惨い言葉の投げかけがあるか?
まるで「繊細すぎたからいけない(死んでしまうなんてことになった)」と読めてしまう。

脚本家がInstagramで書いていた文章を読んで、「あれが特別誰かを傷つける文章には見えない」なども。
言わせて貰えば、それはお前の中ではそうなんだろうよ。という一言に尽きる。あくまでお前の中では。お前の中だけでは、だ。

繊細すぎる、というのも、お前らの中だけでの話だ。としか言えない。
なぜそう簡単に他人をジャッジできるんだ。神か何かか? 最後の審判を下せる何者かか?
カルマが高すぎる。

こういう人間が多すぎて嫌になる。悲しくなるし、怒りたくもなる。
常日頃から悩んできたという実績があって、精神が削られてパニックに陥って……あんな結果を辿ったものだとしても同じことを言えるんだろうか。
そういう修羅場続きの連続だったという仮定すらできないんだろうか。
もっと言えば、そういう大変な日々を過ごしてきたかもしれないという背景を前提にして語れないのか。ならば残念だ。ガッカリだ。

といって、俺自身は脚本家を責める気もない。
あるアカウントが「この脚本家を責める流れで、脚本家が自死したらどうすんだろうね?」と言っていたのを見たが、本当にそうなんだよ。
その可能性もあるんだよ、そう見えないとしても。
でも通じないかもな。


色々と思い出している。
「病人は病人らしくしろ」みたいな。
俺自身、デリカシーのない身内(だが自分以外の他人だ)から
「お前はなぜ本気で生きないんだ、怠け者だ、遊んで暮らしている」
そう、ジャッジされていた。
なぜわかったかと言えば、そう思われているのを確信して問い詰めたからだ。「お前は俺をそういう人間だと思って見下しているだろう?」と。
あっさり認めた。泣きながら頷いた。泣けば良いと言うものではない。

どうして自分以外の他人に対して
「お前は本気で生きていない、頑張っていない」
なんて審判が下せるんだ。そう審判を下しておきながら平気な顔をして生き続けていられるんだろうか?……そう思った。

本気で生きる、とはどういうことなのか、仮に「本気で生きる」という事象に定義か基準があったとて、本気で生きている証明を誰かに提示しながら生きていかないとならないものなのか?
そうしないと生きていく許可を得られない?
「頑張っている」という証明をしないと、頑張って生きていない、というジャッジを一方的に下されても文句を言えないのか?

キャパシティは人それぞれで異なるものなのに?
痛みの限界は人それぞれで限界の容量も異なるものなのに?

自分も過去、他人をジャッジしながら生きてきた幼い莫迦野郎だった。だが徐々に「ヒトには自分らからは見えない部分が必ずあり、そこでは想像もつかないような事情が隠れている」と思いながら過ごすようになった。

「そんなんじゃコミュニケーションなんて取れなくない!?」
と泣きながら抗議されたが、そんな訳あるか。
言い返すのも疲れた、そんなやりとりだった記憶がある。それ以来その身内とは疎遠になった。

——

トラブルや苦難に遭ってその後、自ずから振り返った際に「ある意味、貴重な体験ができたと言えなくもないか」という姿勢でそのトラブルや苦難を乗り越えることもあるだろう。
けれど、その「貴重な体験をした」という言葉は、自分から自分にしか投げかけてはいけない言葉だと俺は考えている。

大病をして生きて戻ってきた。
そんな人に向けて他人が「貴重な体験をしたね」なんて、どうして言えようか。

そんな、「他人に投げかけてはならない言葉」がたくさんあるんだよな、と思っている訳だけれど、残念ながらこの世界ではポンポン禁忌言葉が飛び交っている。

人間ってなんなんだよ。と思う、非人間である。

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