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怒と哀のマーブル模様

話がわからないから何なんだ。
わかりたいと思わないことに対してわからないのはこちらは本望である。
むしろ通じ合えないけど、どう考えているのかをお互いに意見を交換した上で受容すればいい。理解しようと、わかり合おうとすること自体が大事と思う。

「話がわからないから、いくら話しても無駄だからもういい。面倒くさい。」
先週の金曜日に僕は、面と向かって会社の後輩に呑みの場で言われた。

正直その瞬間相当イライラしたし、言い返したい気持ちはとてもあったが、サシ呑みでもなかったので場を考えて笑顔で切り抜けた。
ただ言っておきたいのは、僕は聖人君子ではない。昔の僕だったら必ず言い返していたしその場を凍り付かせていたと思う。大人になったのか、ただただそれをやることの体力がなかっただけなのか。(それはそれで寂しいものだけどおかげで聖人君子っぽくなった)

そこからずっと心のモヤモヤは続いている。
これは言われて切り捨てられた側だからと言うだけではないように感じる。

そこで言い返した時にこちらの価値観を押し付けている様に感じて、彼と同じ土俵に上がってしまっていることになる。それを避けたい。言われた側のため、“喜怒哀楽”でいう“怒“と“哀”が入り混じってマーブル模様になっている。

振り返ると、こうとも言える。
僕を切り捨てた彼は、その時怒(理解度の低い人に何度も話すことの労力の無駄さ)と哀(理解してもらえないことの哀れみ)を僕に向けてきた。僕はその怒と哀を血飛沫のように浴びた。それによってマーブル模様の心模様になったというわけで、考えようによっちゃ刺激を与えてもらったとも言える。現にnoteをかけている。(まぁ僕だったらそんな暴力的に周囲にその矛先は向けず自分で処理するけど)

時間は流れ、くっきりとしていた怒と哀のマーブル模様も渦を巻きはじめて数日が経過するうちに元の模様に境目がなくなっていく。混ざるとグレーに落ち着いていきそうだ。そうなると怒と哀のマーブル模様状態は苦しかったけれど寂しい気もする。
こうやってnoteに昇華させるほど淡くなっていくことを一文字一文字感じる。

グレーになる。グレーになる。

白黒はっきりさせられない世の中で「グレー」で「よしなに」やっていくという世界に成り立っている。(本の“モモ“を思い出した)
ただこれもどうなんだろうね?

グレーになるよしなにやる、これが世の中を渡り歩く大人としてのドレスコード。そのうち「よしなにグレー」というファッションアイテムも出てきてもおかしくはない。
よしなにグレーのジャケットに、よしなにグレーのスラックス、よしなにグレーのネクタイを締めて、よしなにグレーのサラリーマンが完成する。

いつかはよしなにグレーのスーツに身を包むのだろうか。
僕にとっては正直どちらでもいい。
なぜなら「合う人と会う」をテーマに生きている。
そして、僕はいつの日かよしなにグレーを脱ぎ捨てたいとも思っている。その時は社会とちょうどいい距離感になれた時だろう。血飛沫のかからない所に。

周囲に浴びせられて自分の色を忘れないようにしよう。
何よりも自分の色が消えてなくなる方が哀しい。

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