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黄金率の里山

執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺


子高い丘の頂上には松の木がその体をひねりながら天に伸びる。隣りには楓の木が斜に構える。まだ若きその幹や枝葉は細く、風とともに全身はゆれる。中腹の二三箇所飛びヽヽに八重山吹の品位ある黄色が零れる。

土より隆起する岩の面には薄っすらと白い痕がある。おそらく蝸牛(かたつむり)のなめた跡だろう。岩の成分は甲殻を立派に形作るための栄養になると、どこかの本で読んだことがある。この里の岩はミネラルが豊富なのか沢山の白い跡がある。甲殻の螺旋回転は黄金比率に拠るそうだが、この精巧な産物は数式の難解さを感じさせない妙がある。あの松の木にも黄金比率が隠れているのか。数学者ではない私には知るよしもないのだが、おそらくそうであると根拠のない自信が湧いてくる。

とある哲学者は、知識を量から質へと昇華させるのが知性であるといった。知識は勉強を行うほどに増してゆく。しかし質において上等であるか否かは各人の知性による。知性とは理性のみならず血の通った心が欠かせないと私は考えている。古代ギリシャの哲学者ソクラテスやプラトンの思想については付け焼刃の私であるが、氏らの弁論には温かな心を感じるのである。冷たい合理性がすべてではなく、血の通った非合理性も垣間見えるのである。ソクラテスが不条理な罪を負い、逃げることができたにも関わらず自ら毒をのみ裁きをうけた事実は、氏自身の哲学において「法」は絶対的な概念であったことの証明である。哲学とは一切の偽りを排した真正直な生き方そのものであろうか。自然と相対しそこに特別な神性や美しさを見出し哲学するということは、その行為、思想は自己の生き方そのものを規定することである。そして、その法において自己自身は神であると同時にそこに生きる平凡な人なのである。

したがって知性は重要である。誤った知性いわば不十分な知識と心情は、誤った法をつくり、そこに生きる人そのものを邪神にさえ堕落させるかもしれない。私が自然に相対して感得する思想はおおよそこのようなところであり、自然に隠された数式という難しくもおそらく綺麗な宇宙の法則に、私個人の心情が混ざり合って立ち上がるのである。

難解であるから深遠であるとは限らないように、私の思想はあくまで意見、感想であり真理とは限らない。お節介かもしれないが、皆様が自己の意志のもとに知性を育み、各々感じることを大切にしてほしいと願うばかりである。それは生き方すらも規定するため、善き言葉、善き思想は極めて重要である。もし貴方が自身の主張において「それはあなたの思想、感想に過ぎない」と心ないことを言われたとしても、少なくとも私は貴方を支持する。真偽如何に関わらず肯定する。そしてそこからお互いの知性を高めんと対話するのである。その道の先には真理があるのではないか。個においては信仰、公においては真理となりうるのではないか。古代ギリシャでいえば「アカデメイア」「リュケイオン」、日本でいえば「座」、「講」といった仕組みが要請されるのである。その点において、パローレ(Parole)は現代のウェブ全盛時代に適応したひとつの試みであると私は感じている。

最後に、蛇足になるかもしれないが拙句と俳人・前田普羅(明治一七~昭和二九)氏の句を紹介したい。折柄、行く春と来る夏の狭間を感じ取っていただけたら幸いである。

春尽きて山みな甲斐に走りけり  前田普羅

春という山々が笑みをこぼす季節は過ぎ、今まさに活気ある夏が訪れようとしている。日本中の山々は甲斐国(山梨県)を目指して駆けてゆく。春は冬の厳しさを乗り越えて喜び溢れる季節であるため、その終わりは僅かな憂いを漂わす。また夏の高温多湿も決して心地よいものではない。しかし、本句はそれらの負の印象をすべて正に昇華させている。「走りけり」の措辞は初夏のさわやかで快活な空気感を立ち上げる。山の擬人化は全く陳腐ではなく、この大きな飛躍が美しく簡潔にまとまっている。上句「春尽きて」の「て」にある柔らかな切れが心地よい。

行く春や大浪立てる山の池  前田普羅

過ぎ去ろうとする春。どうと風が吹き荒れる。山の池はその飛沫を天高く捲きあげながら大きな波を立てている。山あい深くの静謐な池ではなく、大浪を立てる「動的」な池である。活力と威厳に満ちている。晩春の憂いを吹き飛ばし、躍動感溢れる初夏の到来を予祝するかのようである。山の池にまるで意志があるようで、神の存在が眼前に迫ってくる。荘厳な一句である。

山吹の一枝にかヽる水勢かな  前田普羅

水勢は「みづせ」「ながれ」のどちらの読みだろうか。山吹の一枝にかかるほどの水勢であるから、私は「みづせ」とみたい。しかし、「ながれ」と読むほうが音韻は流麗であろうか。俳句は音韻が重要であるため読み方は一文字すらも妥協できない。作者の意図する調べは絶対に間違ってはいけないのだが、以上のように私はわからないため可能性のみを提示しておきたい。内容をみてゆく。山吹は細い枝をしならせながら黄色い花を豊かに零す。その花弁、とりわけ一枝を濡らしている。初夏を感じさせる勢いのある川、その岸に青々とした草木が陽の光をうけ、枝葉を盛んに伸ばさんとする。透き通るような精粋な景に山吹の黄色が際立つ。結句の「水勢かな」の静かな余韻が、動的な川と揺られる一枝に初夏の詩情を醸し出す。

月さすや沈みてありし水中花  前田普羅

月光が射し入る池。沈んでしまった水中花が水底に佇む。幻想的な景である。中七の「ありし」が本句の要諦であろうか。水底の流れや水面の漣により揺れてみえているのではなく、ただそこに「沈んでいる」ということを意識させる。時空に動きはなくその一瞬が立ち上がる。水中花とは紙でできた花を水面に浮かべることで、水分を吸い込み花が開くという仕掛けである。最も華のあるときを過ぎて、水中花の死を感じさせる様を切り取った点は一種の緊張感として詩情を表出させている。濡れた紙の脆さ、水底、月光が僅かな悲しさ・儚さという細い糸で繋がれている。水中花は実用品の対極に位置しており、日本固有の伝統美に特化したものである。昨今は合理主義により失われつつあるかもしれない。令和に生きる私は本句にその憂いを感じ取った。

薇の黄金率の螺旋かな  嶺

薇(ぜんまい)のくるくるとした先端の巻いた部分に黄金率が隠れているのではないか。自虐めいた評になるが、知識を前提とした機智的な句であるため詩情は乏しいだろう。薇の姿形を詠んだ名句は、川端茅舎氏の「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」を挙げることができる。薇の渦巻にはなにか不思議な魅力がある。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。



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