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甲斐国の俳人・飯田蛇笏氏の句にみる山国の美 〈前編〉

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺


ラボラトリオ(和名:文章工房)の拠点である山梨県甲府市は、周囲に雄々しい山々を配する盆地にある。山々が眼前に迫るかのように近く、県外から来た人々は、そのことに少し驚かれるようである。

この時期は、美しく冠雪した富士を望むこともできる。西には人を拒むかのように聳える北岳がある。その少し北方には、甲斐駒ヶ岳が関守のように鎮座している。北には金峰山、甲武信ヶ岳と、挙げればきりがないほどの雄大な自然に囲まれているのである。山は誰のものでもないが、この地に生まれた者として勝手ながら誇りに感じている。

この美しい自然を表現するひとつの形として文学がある。私が俳句を本格的に始めるきっかけともなった、ひとりの俳人がいる。名は飯田蛇笏(本名:飯田武治)である。氏は明治18年に山梨県笛吹市にある境川村に生まれた。亡くなる昭和37年までの間に、故郷の地を詠み続けた山梨県を代表する俳人である。

句集「山廬集」は、氏が9歳から47歳までの約40年間にかけて詠まれた俳句が収められている。そのなかより、私が感銘をうけた句をいくつか紹介したい。解説は私個人の意見であるため、参考程度にお読み下されば幸いである。

  藁つむや冬大峯は雲のなか

大意:田には藁が高く積まれている。冠雪した山の大きな峰は雲のなかである。

懐かしい気持ちになれる純日本的な農村風景である。冬の寒いなか、藁を積む人の謹厳実直な様子までみえてくるようである。冬の大自然なかで、農村の営みが浮くことなく、お互いを必要としているかのような、人と自然の共生関係を見出すことができる。人がつくる藁の山と大峰とは質感だけではなく、その規模が全く異なるが、両者の間にはなにか優しく響き合うものがある。

  古き世の火の色うごく野焼かな

大意:野の上に火が揺らめいている。その色はまるで太古の時代の記憶を呼び覚ますようである。

現代社会は、焼き畑、野焼きとは遠いものになりつつあるのではないだろうか。火はその発生源により、様々な相をみせる。野焼は冬枯れした草が燃えてゆくのである。氏は、この野焼の火に古き世をみたのである。春の芽吹きの予祝でもあり、古代の人々の姿さえも立ち現れてくる。また、「うごく」という表現より、火がゆっくりと拡がっていることが伝わってくるのではないだろうか。

初山や高く居て樵る雲どころ

大意:新年初めて入る山である。杣人(そまびと:木こりのこと)は高所、雲のなかで木を切っている。

新年は万物が明るく清らかな印象である。大意において「杣人」という言葉を私が選んだ理由は、初山の神性と響き合うと感じたからである。杣人という言葉にはシャーマンの雰囲気を感じる。結句の「雲どころ」は神の住まう天上を連想させる。初山、樵る、雲どころと全ての要素が格調高く響き合っているといえるのではないだろうか。

(後編につづく)

甲斐国の俳人・飯田蛇笏氏の句にみる山国の美 〈後編〉はこちら

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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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