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2期生卒業式

本当にすごい場でした。

 子どもたちがつくる卒業式。主役でありながらプロデューサーの9年生。大人も子どもも泣いたり笑ったり、心がめちゃくちゃ忙しい一日。
 理事長や校長以外も読む卒業証書なんて前代未聞で、自分が読んでもらいたい人を子どもが決めたらしい。授与自体は本当に短い時間。一言二言発する程度なのに、自ら選んだ一番欲しい人からもらう卒業証書は、お互いが向かい合って立っただけで、グッと込み上げてきて、感極まる。見守る人たちはそれ見てもらい泣き(笑)。

 卒業式は大人が作るものじゃなくて、ましてや大人の決めた範囲内で子どもが一部だけつくるのでもなくて。ここにいる子どもたちにとっては、初めから終わりまで、「自分たちがつくる」が当たり前のこととしてある。

 ある卒業生からの言葉の第一声に、“この場を作るのに協力してくれたスタッフへの感謝の言葉”があった。こうした場面で今まで掃いて捨てるほど聞いてきたどんな言葉よりもまっすぐ伝わってきた。本当に思ったことしか口に出さない子が、心の底から思う言葉で伝えていたからだと思う。

 会場の作り方、進行、機材、演出、アドリブで場を巻き込む力。きっとさまざまなトラブルもあったのだろうけれど、それを感じさせず、失敗は笑いに変えてつなげていく。思わず引き込まれて、中学生であることをうっかり忘れてしまう。
 
 今年は午後から、子どもたちの借り人競争(借り物競争のヒト版)からのアウトプットデー。卒業式と運動会と発表会と謝恩会とお泊まり会をこの日、全部やってのけた。つくるに始まりつくるに終わる。卒業式の日までアウトプット。卒業探究の発表や、ダンス、演奏、最後までやりたかったことをとにかくやる。あっぱれだ。

 親として、どうしても目に見える成果を期待しがちだけれど、そうじゃないんだとしたら、何が得られるんだろう、何が育つんだろうー。
 学校行事に参加する度、卒業生を見送る度に自問してきたが、その答えのようなものの輪郭が今回確信を持って見えてきた気がする。
(数ヶ月前、9年生(中学3年生)の子どもたちと話した時に、子どもたちにとっては“気付けばこういうことが育っていた”と振り返ることはあっても、“この場所で自分の何かを育ててもらおうと思って通っていない”ということに気付かせてもらったのも大きい)

 幼児期に一番大事だと思っていたけど、中学生にこそ必要だったのかもしれない。大嫌いな自分の一面も客観的に見えてきて、他者の目が気になって、否が応でも他人と比べられてしまう彼らだからこそ。

"自分が、自分のことをあるがまま認められること"

 自分はどんなことが好きで、どんなことが幸せだと感じられて、どんな自分でありたいのか。もちろんそこには、弱さも醜さもカッコ悪さも含まれている。
 口々に彼らが語っていたのは、それができたのは、どんな自分も認めてくれる人たちがここにいたからだということ。同級生、スタッフ、異年齢で混ざり合う様々な学年の子どもたち。
 それが、この学校の隅々まで染み渡るような、温かさに表れている。とにかく「温かい」という言葉以外、今のところ見つからない。

"風越で過ごした「わたし」が、未来の「わたし」をつくれますように。"
ある9年生が、卒業前に授業で書いた言葉。

”きっと、できるよ”と、心から思う。
2期生のみなさん、卒業、おめでとうございます。
行ってらっしゃい。

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